第13話 仕事と婚約者を一度になくした話

文字数 1,808文字

「そろそろ、お風呂していいですか? お腹と酔っぱらいは大丈夫ですか?」
パンクロックだろうとアメリカンポップだろうと、音楽の趣味(僕に趣味というほどのものはないが)はそれぞれだが、読書、とりわけ小説の趣味というのは人間関係のその人物の人格、性格をはかる上で重要な要素であるように思う。ソファに座って本棚にあった時代小説を読んでいると、キッチンで後片付けをしている結衣から声がかかる。
「多分、大丈夫」
「お酒を飲んですぐお風呂に入るのは、ほんとは身体によくないんですからね。十分に注意してくださいね」
看護師口調でやんわりと叱られる。
「一人でお風呂入るのは危ないし、二人で一緒に入ろか」
「ダメですよ、二人で入るのは狭いですし…」
「そうかな、結構広いと思うけど」
「恥ずかしいですし、ダメです」
「でも、僕より、結衣の方が呑んでるしな…」
そんな睦言にも似たじゃれ合いを繰り返していたが、根負けしたのか、「あとから行きますから、先に入って下さい」ということになった。

浴室のすりガラスをノックして、「はいりますよ」というと、タオルを垂らして胸と下半身を隠しながら、恥ずかしそうに浴室に入ってくる。明るい光のなかで結衣の裸を見るのは初めてなので、肌の白さがキラキラ眩しく、こちらのほうが恥ずかしい。それもあってか、全身の血のめぐりが良くなって、その一部は下半身に集中する
「頭を洗ったとこなので、看護婦さん、身体を洗ってもらえますか?」と言うと、「えぇ~」と言いながら、石鹸を泡立てて背中や足指の間などを丁寧に洗ってくれる。目の前でプルプルと揺れる胸を石鹸のついた手で触ると「ダメ」と叩かれ、「結衣も洗ろうたげよか?」と言うと、「恥ずかしいから嫌です」と頑々と拒否されてしまう。
この浴室は、浴槽もゆったりと広いが、浴槽の左右と奥には、黒いタイルで15㎝(奥は30㎝)ほどの幅が取ってある。カランと反対の浴槽の端に座り、足だけをお湯につけて、彼女のまるめた背中をボーッと見ていた。最初は、単純なスケベ心と好きな女の子に意地悪をしたいという子供じみた邪な思いから始まったことだが、その後ろ姿に、入院中に見た一生懸命に働く姿が重なって見え、胸が詰まった。
「そんな、じっと見ていて面白いですか?」
背中を向けて身体についた泡を流しながら、鏡越しに笑う。
「面白いよ。でもチョットのぼせたし、先に上がらしてもらおかな」
「あっ、そこにパジャマおいてあります」
そう声をかけ、浴室を後にした。脱衣室には、先月と同じストライプのパジャマと先月履いていた下着がきれいに、アイロンがけがしてあった。

「ご機嫌損ねちゃいましたか?」
ソファに座って本棚にある小説の続きを読んでいると、髪の毛を濡らしたままリビングにでてきて、叱られた子供が言い訳をするように小さな声でいう。
「恥ずかしいだけで、絶対嫌ってわけではないんです。明日も一緒にお風呂に入って良いですよ。頭も身体もちゃんと洗ってあげますよ」
最初は、何を言っているのかわからなかったが、先に浴室から出たことから、身体を洗う、洗わないで、機嫌を損ねたのではないかと早合点しているらしい。
「そんなことやないよ」と首を振りながら笑って、その理由を説明した。
「結衣の背中見てたら、入院中のこと思い出した。日勤して深夜して、寝不足で疲れててもいっつも笑顔で、患者さんがわがまま言うたり、急変したりする中でも毎日頑張ってるんやなって。僕も負けんようにせなあかんなぁと思たら、なんやのぼせてしもた」
偉い、偉いと頭を撫でると、安心したのか笑顔で大粒の涙をポロリとこぼした。
「早ように髪を乾かさんと、風邪ひくぞ」と髪にタオルをのせて脱衣室に送り返した。

ドライヤーの音を聞きながら、口について出た『僕も負けないように頑張らないといけないこと』を考えていた。それはわかっている。大切な仕事と大切な人を一度になくした六年前の話だ。誰かを恨んでいるわけではなく、その時も自分なりのベストを尽くしたはずだ。彼女はもう他の人と結婚したと聞いているし、すべてに決着がついていて今更できることは何もない。心の整理がついていないため、どこにも行けないというごく個人的な問題だ。ただ最近、色々な良くないうわさ話が耳に入ってくる。自分には関係のないことと思いつつ、それがどこか気持ちをざわつかせている。
リビングの電気がパチンと消えた。
前には裸の結衣がいた。
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