第2話 佐々倉 結衣

文字数 3,025文字

自宅に戻れない患者にもお屠蘇気分が味わえるよう、元日の昼食に簡単なお節料理がでる。食欲はなかったが、まったく手をつけないのもゲンが悪いような気がして、散らばっている口内炎に触らないよう注意しながら黒豆と数の子を一かけずつ口に入れる。
頭の中は常に靄がかかった状態で、全身の筋肉が強張り、呼吸も浅く荒い。それでも慣れとはたいしたもので、強烈な悪寒と脱水がやってくるジェットコースターの時間帯を除けば、低い吐息でゆっくりとしたテンポであれば軽い話もできるようになっていた。
「元旦も夜勤なんやね。ごくろうさま」
「クリスマスイブと同じ、独身・彼氏なしの豪華メンバーです」
佐々倉さんは僕の担当看護師。入院中の看護指針について何度か説明を受けている。
それもあってか、一番話しやすい。他の患者からも、同じようにからかわれているのか、少し下がった目じりを緩ませながら、ゆっくりと点滴の準備を始める。コロナの流行が収まった後も医師や看護師はまだ、顔の半分が隠れるほどの大きなマスクをつけている。時計を見ながら点滴の落ちるスピードを確認するときにマスクの位置を直し、鼻骨のあたりをつまむようなしぐさをするのが彼女の癖だ。
「最近の若い男の子は、見る目がないな」
「ありがとうございます。看護学生の時から、バレンタインもクリスマスも元旦も、ずっと夜勤しています。今更、やけになって失敗したりしませんからご心配なく」
一つ一つの言葉が穏やかで優しい。彼女は、患者の軽口(広域で見ればセクハラか?)であっても、必ず手を止めこちらに向き直る。どんなに忙しくても、バタバタしていても、その空気を患者には吸わせない。同室者の意識のない寝たきりのお爺さんにさえも、一言、二言話しかけ、「我慢しないで、何でも声かけてくださいね」と微笑んで戻っていく。

「私もひとつプライベートなことをお伺いしてもいいですか?」
その日は、ベッド脇にある面会者用の丸いすを引き寄せると、目線の高さを合わせ覗き込むようにして話をつづけた。
「矢代さんはどんなお仕事をされているんですか? 本当は患者さんのプライバシーを詮索してはいけないんですけど、ほとんどの方はお聞きしなくても、何となくわかるんです。でも、矢代さんはサラリーマンや公務員、自営業という感じでもないし、何をされている人なのかなって、看護師の間で噂になってるんですよ」
トイレに行くのでさえふらふらしている、げっそりとした四十男の噂をしなければならないほど、彼女たちが暇だとは思えない。気まぐれに「あの人は何の仕事してる人やろね」と誰かが言った程度のことで、少しでも、俗世のことを思い出させて、元気づけようと誇張しているのだろう。
「僕の仕事はね、いわゆる経営コンサルタント。顧問先の会社の新しい商品開発や、経営改善をサポートしてる」
入院した頃はまだ、「年末年始でクライアントに迷惑をかけずに良かった」「休みを多めにとっていてよかった」と考える余裕もあったが、いまはそれも思わない。腫れあがった喉は詰まっており、脳内のハードディスクの引き出しを開けるまで少し時間がかかったが、彼女は優しい笑顔で静かに待ってくれていた。
ぽつり、ぽつり、自慢話にならないよう、控えめに話をしたつもりだったが、彼女は、大げさに驚いて感心してくれ、開発をサポートした商品が新聞で取り上げられたこと、業界誌に連載していることなど、少しずつ風呂敷が広がっていった。
「たくさんの方と一緒に、大切でやりがいのあるお仕事をされているんですね」
時間にすれば、5分くらいだろうか。聞き上手な彼女に乗せられ、思い出話をする中で、苦労したプロジェクトや一緒に仕事をした仲間、退職する時に泣いてくれた後輩、お世話になった顧問先の会社の社長など、たくさんの人の顔が浮かんだ。
「たくさんの人にお世話になってきたし、途中のプロジェクトもあるし、いつまでも病院でくたばっているわけにはいかんのやけどね」
軽い気持ちで、何気なく応えたのだが、突然「うっ」と顔が歪んで、目から大粒の涙が溢れだした。

その場の雰囲気や感情に左右されたり、感動や興奮で涙を流したりするタイプではない。感情表現の起伏が小さく、腹の底が見えない典型的な京都人だと揶揄されることも多い。彼女は、純粋に励まそうとしただけで、他意はないことはわかっているし、そもそも泣くような話をしている訳ではない。高熱が続いていることや絶対的な寝不足、先の見えない不安やストレスが溜まっていることなど、原因や理由を挙げればたくさんあるだろう。瞬間的な感情の混乱、いわゆる情動失禁であり、そのまま大崩れして号泣するというものではないが、突然のことに、自分自身が一番驚いた。
「ごめんごめん。格好の悪いとこ見られてしもたな。こんなことになるんやったら、佐々倉さんのような可愛い女の子と、たくさんデートしとけば良かった」
左手の親指と人差し指で目元をなぞるように涙を拭き、少し剽げながら言い訳をした。
「そんなつもりでなかった」のは、僕だけではない。眼鏡の奥の黒い瞳が大きく広がっている。看護師として何か言わなければならないと思う反面、突然のことに、すぐに継ぐ言葉が見つからないのだろう。その緊張を避けるように、ゆっくりと息を吐き出しながら、彼女の胸のあたりに視線をうつした。
ちょうど、助け舟を出すように左のポケットにある病院のPHSが震えた。
「はい、佐々倉です」「わかりました、すぐに伺います」
電話を切ると、眉間にちいさなしわを残したまま、無理に笑顔を作った。
「コールが鳴ったので戻ります。大切なお話しをいただきありがとうございました」
「こっちこそ、忙しいのに話をきいてもろておおきに。ちょっと元気になった」
そう応えると、もう一度小さく頭を下げて、病室を出て行った。

その日から、トイレに行くたびに、彼女の姿を目で探すようになった。
背丈は点滴スタンドと同じ160㎝程度。姿勢が良く、和服が似合いそうな細い首。いつもプレスされている紺色、Vネックのユニフォーム。同系色の大きなふちどりの眼鏡から、目元が膨らんだ目じりの下がった穏やかな切れ長の一重の目がのぞく。肩を少し超える長さの真っ直ぐできれいな黒髪。前髪は右から左に緩やかに流れている。後ろ髪は横幅5センチ、縦2㎝程度の古風な楕円形の髪留めでまとめられ、襟足の少し上あたりで留められている。
医療や介護の世界で働く人の中は、少し言葉を崩してフレンドリーに話をすることが、親和性につながると思い違いしている人がいるが、日本語はそれほど不自由なものではない。患者や医師、先輩看護師だけでなく、後輩や看護学生に対する態度や言葉遣いも分け隔てなく丁寧で優しい。
患者の前ではほんわかとした雰囲気だが、ナースステーションでは、てきぱきと指示をする姿も見られ、いつも厳しい看護師長からも信頼が厚い。勤務後のスタッフルームでは年上の先輩ナースからは結衣ちゃん、後輩からは結衣先輩と慕われている。
気になると言っても、歳の離れた看護師さんに懸想するほど若くはなく、その元気もない。入浴ができないため、二日に一度、看護学生が温かいタオルを使って全身を丁寧に清拭してくれるが、性的な興奮も妄想もなく、心も身体も、情けないくらいピクリともしない。先の見えない入院生活のわずかな緩和期間に、かすかなエネルギーでできる唯一の気晴らしといったところだろうか。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み