第55話 絶対的不利な位置からの弱者の戦い

文字数 2,535文字

結衣の生そばを持っておよばれに行った日、真琴をだしにして兄が早く来るようにいったのは、山下繊工の話をするためだった。僕が相談していたことの回答を含め、作戦の全体像や方向性がある程度見えてきたからだ。
女性陣が錦市場に出かけたあとのがらんとした広い家で、差し向かいで話をするのは、祖父が亡くなって以来、久しぶりのこと。
9月の末に、進めてきた新素材の開発が最終段階に達し、専門機関に依頼し、機能や安全性、耐熱性の評価に入ったという報告を受けている。最終チェックには10月一杯かかるそうだが、現段階で想定される機能や有用性、汎用性などをまとめたレポートを策定するように伝えてある。それは一週間程度でできる予定だ。

僕が兄に頼んでいたのはホワイトナイトを探してもらうこと。
それは、今回のように敵対的な買収を仕掛けられた場合に、その対抗措置として友好的な第三者に株を買ってもらうことで会社を守ろうとする手法を指す。ただ、もちろん、それはビジネス上の取引であり、メリットがなければ誰もお金を出してくれないし、下手をすれば、そのまま乗っ取られるリスクもはらんでいる。
もともと、山下繊工は、技術力・開発力には定評があるが、営業力や製造能力の面では、大企業と比較すると格段の差がある。開発力を維持しながら、営業力や製造能力を高めていくことは容易ではない。今のままでは、アイデアや技術力を切り売りしていくような方法しかなく、それだけではどこかで必ず限界がやってくる。見方を変えれば、安い労働力に背景に高い製造能力を持つ海外の企業が、山下繊工のもつ最先端の開発技術という頭の部分だけを切り取ろうとしているのが今回の企業買収だ。それもまた、企業としては当然の戦略だと言ってよい。

現在、山下繊工の議決権を有する発行済み株式で、社長や美穂子等などの現在の経営者親族で持っているのは全体の28%程度。一方的な企業買収ではなく、山下繊工の弱点を補完してくれるような同業他社との提携によって、双方メリットのある形で安定株主になってもらい、今回の問題を乗りきろうというのが僕の描いた再生プランだ。
兄にその企業選定を依頼したのは、呉服業界は被服業界の一つであり、繊維業界との結びつきは小さくないこと、また、大手繊維メーカーには、もともと関西に拠点をおく企業が多いことから、兄には人脈もあり、またその動向にも詳しいからだ。

兄は、その日初めて一つの企業名を告げた。
大阪に本社を置く、最大手の一つと言って良い日本を代表する繊維メーカー。
その会社には、社長直属で企業提携やM&A、マーケティングや営業戦略など企業の方向性を左右する事項について一括して担当する経営企画室という部署があり、その室長(取締役)と面識があるという。
「企業名を伏せて、内々にということで簡単に話をしてある。『一度、話聞いてやってもらえんか』と頼んだ程度やと考えてくれたらええ。ただ、相手さんにとっても、こちらさんにとっても、そないやわい話ではないからな」
「それだけで十分。タカちゃん、ホンマおおきに。正面からいくと、そこにたどり着くまでに時間かかるし、動きが途中で漏れてしまうとそこで終わるから」
そう言って頭を下げると、兄は一呼吸置いた。

「でも山下さんのために、何でハルがそこまでするんや。山下さんも美穂子さんも、エエ人やとは思うけど、色々あったやんか。こうなったんもハルのせいやないやろ」
批判を含んだ口調ではない。ただ、兄から見れば、原因不明の熱病で死にかけた病み上がりの弟が、失敗するリスクが高く、人間関係としてもやっかいな、ややこしいところに突っ込んで、また傷つくのをみたくないのだろう。
「まぁ、それが僕の仕事やし・・・」
少し考えたあとでそう笑うと、兄はもう少し何か言おうかと思案していたが、「まぁ、ハルがそう言うなら、それ以上俺が口だすことやないけど」とそっけなく横を向いた。
祖父の寝室だったこの部屋に二人でいると、兄が養子になると祖父に告げに来た日のことを思い出す。あの日も、こんな秋の風が吹く日だった。
「真純がな、久美に『ハルちゃん病気しはってから、何か感じが変わったなぁ』って言うてたらしい。『いままでも私らには優しかったけど、なんかまるい感じになった』って。それは病気のせいなんか、結衣ちゃんのおかげなんか、そういう歳なんかは知らんけど。まぁ、なんしか、ちょっとでもええ方向にいったらええな…」
そう言うと、お茶を一口飲んで、もう一度仕事の話に戻り、二人でこれからの方向性や進め方、課題、着地点などについて意見を交換した。

ポイントは、三つある。
一つは時間。現在株価は安定しているが、相手側は年明けにはなんらかの動きを始める。新しい材料がないまま、TOB(株式公開買い付け)を出されると、多くの株主はそちらに流れるだろう。その時点で提携のシナリオは崩れてしまう。先手を打って行動を起こす必要があり、実質的に残された時間は二ヶ月程度。
二つ目は金銭的な評価。山下繊工の技術力・開発力は業界関係者の認めるところであり、今回の隠し玉である新しい高機能繊維の開発の成功も、大きな武器になるだろう。しかし、一定量の株式を取得してもらうとなると、その時の株価によって数十億の金銭的負担が発生する。それだけの負担をしても提携するメリットがあると評価してもらえるかどうか。
最後の一つは条件。日本の繊維メーカーは中国などから輸入される安い繊維に押されており、現在、各メーカーともに被服以外の汎用性の高い高機能繊維の開発を積極的に進めている。兄が名前を挙げた企業は、従来の繊維は強いが高機能繊維に関しては他の大手と比較すると、少し出遅れているというのが業界の評判だ。その点においては、山下繊工には強みがあるが、他の大手企業とも競合している分野でもあり、どのような条件で提携できるのかが重要となる。
ファンドには大量のカネがあり、時間もかけて準備をしてきているが、こちらにはどちらもない。急がなければならないが、慌てて穴ができると瓦解する。「時間」「評価」「条件」、話をしながらポイントを整理していると、やはり相当難しい案件だという事実だけが積み重なっていく。
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