第59話 おやっさん 心筋梗塞で倒れる

文字数 1,461文字

タケも動揺しており、スイマセン、わかりませんと何度も言うだけで要領を得ない。洋さんも外に出ていたようで、「倒れた」「病院に担ぎ込まれた」ということ以外に、容体も原因もまだわからないらしい。
「この先、どうなるでしょうか」
「とりあえず今は、おやっさんの体のことだけや」
「そうですね」
結衣をそのままにしてタクシーに乗り、新幹線の中から、洋さんに何度か電話をするが、病院の中にいるのか電源が切られていて通じない。会社に電話をしても、同じく連絡を待っている途中だという不安そうな声しか聴けない。
携帯電話の登録機能が一般的なものになってから、昔のように電話番号を覚えるという習慣がなくなった。自分の番号でさえ、携帯を開いて確認しないと頼りない。いま携帯電話を落としたときにかけられるのは、だれもいない実家とまるよし、「わかりやすい覚え方」とリズムに乗せて刷り込まれた結衣の携帯、そして、もう一つだけ。
今はもう登録されていない、頭の中にまだ残っていた、その番号を押す。
繋がった。
「はい、美穂子です」
彼女も、誰からの電話かわかっているようだ。
会議やミーティングで仕事の話をすることがあっても、個別に二人きりで話をすることはない。周りがというよりも、お互いがお互いに気を遣っていた。美穂子はすでに二人の子供をもつ人妻だが、僕はまだ独身で、以前は結婚直前までいった恋人同士であったことは、現在の夫をふくめ関係者全員が知っている。仕事上のことであっても、彼女の携帯に直接電話することもないし、かかってくることもない。二人で思い出話ができるほどにはなっていないし、美穂ちゃん、矢代さんと呼ぶのも微妙な関係を表している。そう呼ぶのさえも、必要最低限で互いに極力避けている。
電話越しとはいえ、二人きりで話をするのは、ほぼ六年ぶりになるだろうか。
「吉田くん(タケのこと)から電話をもらった。おやっさんの容態は?」
「いま、緊急手術がおこなわれています」
「原因は何? 脳梗塞が再発したの?」
「いえ、恐らく心筋梗塞です。父は昔から血圧が高くて、それにずっと無理してたから…」
「いま、新幹線で東京に向かっているから。五時過ぎには東京につくから」
そう言うと、長い沈黙の後で、抑えていた感情が爆発し一気に崩れ落ちた。
「ごめんなさい。あなたの言うことを聞かずに裏切ったのに、困った時にだけまた頼ろうとしたから罰があたったんです。みんな私のせいです。ごめんなさい。ごめんなさい」
デッキに立って、美穂子が泣きじゃくる声を、しばらく聴いていた。そんなことは初めてだった。別れのときも唇を引き絞って僕の前では泣かなかった。
僕は京都に戻って、祖父や母、兄の家族に囲まれて新しい環境で生活をしていた。美穂子はつらい思いをしたその同じ舞台に立ち続け、どこかで自分を責めながらそれを共有する同じ人達とずっと生きてきた。そしていま会社が危機に陥って、また僕を頼ってしまったことに、心苦しい思いが強くあったのだと気づく。

小さく息をはいて、落ち着きを取り戻す。
「美穂子 美穂子」と二回呼びかけると、しゃくり上げながら微かに反応する。
「ずっと辛い思いをさせてたんやな。ごめんな」と言うと、
「ハルちゃん」と言葉にならない泣き声がすがってくる。
「美穂子の責任やないよ。これは僕と美穂子に与えられたもう一つの試練やろ。前の時は失敗したけど、今回はみんなで力を合わせてなんとか越えられるように頑張ろ」
新幹線の中で、大きな声で自分に言い聞かせるようにそう言うと、もう一度、電話口で大きな泣き声がした。

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