第58話  結衣は四月からどうするのか

文字数 2,178文字

その二日後の木曜日の夜。
【お忙しいですか。お手すきの時にご連絡ください】と結衣からメールが届く。
電話はしていたものの、スケジュールが上手く合わなかったことや、山下繊工の案件が難しい場面に入ると聞いて結衣が遠慮していたことが重なり、真琴と動物園に行った日以来、会っていなかった。
ほぼ4週間ぶりだろうか。10月の晦日となった金曜日は、いつもの福岡での定例会議も変更となり、結衣も休みだったため、再開の地、河原町六角のロフト前でランチの待ち合わせをする。

出雲大社に全国の神様が集まるこの月は、月初めと終わりでは女性のファッションががらりと変わる。手を振りながら走ってくるデニムと薄手のカーキ色のハーフコート、ふんわりとまかれたグレーチェックのストール。美味しいと評判のキーマカレーのお店があると言うので、それを食べたいらしい。
「この間テレビで言ってましたけど、カレーを食べると認知症予防になるそうですよ」
「スマンねぇ。彼氏がおじさんやと、色々とご心配をおかけして」
「そんなこと言ってませんよ。それ認知症じゃなくて、被害妄想じゃないですか?」
観光客は多いものの、紅葉のシーズンにはまだ少し早いため、それほど混雑しているわけではない。香辛料のせいか、身体がポカポカしている。
「お仕事は、その後いかがですか?」
「まぁ、だいぶ落ち着いたかな。僕は何もしてなくて、タカちゃんのおぜん立てが上手いこといったってところやな。結衣の方はどんな具合?」
「この間のレポート、病院長と総師長に絶賛していただきした。ポケットマネーからだと言って、図書カードを10万円分もいただきました。看護関係の専門書ってとても高いから、ありがたく頂戴いたしました」
「そりゃ残念。図書券ではこの間みたいなセクシーなんは買えんしなぁ」と言うと、口に人差し指を当てて、「し~っ」と言って、一緒に笑った。
「それで、12月の中間管理職以上の全体会議で、この間のレポートの報告をすることになってしまったんです。お忙しいとは思うんですが、またお手伝いください」
そう言って、目の前で拝むように、手をこすり合わせる。
話す内容については、レポートを作る過程でたくさんの蓄えがある。また、以前、医療法人を担当した時に、同じようにリスクマネジメントのプレゼンを理事長や院長の前でしたことがあり、その時に作った資料がある。この病院の課題に合わせて作り直す必要はあるが、それほど手間ではない。
「まぁ、ええよ。でも新たな契約になるけど、結衣はここで宣誓をするの?」とおどけて満員のテーブルを見渡すと、「いじわる」と小さく言って、「い~っ」と顔を顰めた。
それよりも、僕には気になっていることがあった。

店を出て、三条大橋にあるスタバに寄る。
ここは現代の華やかさとは対照的な敗者の歴史の舞台である。側室、子供を含め豊臣秀次一族三九人が切られ、石川五右衛門が釜茹にされ、石田三成の首がさらされた場所。近藤勇や沖田総司らが切り込んだ池田屋もすぐそばにあり、その数年後には、近藤もここで梟首されている。
鴨の流れを前に、詰問調にならないように優しく訊ねた。
「結衣は来年の四月からどうするつもりなん?」
3月いっぱいで、今のマンションを出なければならない。最近、東京のゆかりさんからの連絡が増えていることも、恐らくそれと関係している。
「病院長や師長からの期待が大きなって、4月から結衣に何か責任ある仕事を任そうとしてはるんやったら、一ヶ月、二ヶ月前に辞める言うんでは、迷惑かかるよ」
そう言うと、結衣は何かをじっと考えるようにコーヒーカップを見ていた。
「住むとこやったら、狭いし古いけど、うちの家に住んだらエエ。僕も嬉しいし、子供らも大喜びするやろ。でもそれで良いんかな? 結衣がどういう選択をするにしても、僕が一応聞いておくことはないんかな?」
結衣はゆっくりとコーヒーカップをまわしながら、言葉を探していたが、大きく深呼吸をすると、「ハルさんは何でもお見通しですね」と、ぎこちなく微笑んだ。

「ゆかりさんが勤める東京の病院で、来年の10月の開院予定で緩和ケア病棟を作る計画が進んでいて、4月から立ち上げ準備の看護師の募集がはじまるんです。それで、結衣も受けてみたらどうかってご連絡をいただいてたんです。母のこともあって、私ががん病棟やホスピスに興味があることをご存じだったので」
そう言うと、一度言葉を区切った。
「ありがたいお話しなんですけど、でも、私はもう東京には行かないって、京都にいるって決めたんです」
「なんで、そのことを僕にいわへんかったん?」
「だって相談すれば、結衣はもっと勉強しろって、東京に行けって言うじゃないですか」
結衣には似合わないきつい口調になり、そして泣き顔になった。それだけ、どうしようか、僕に相談しようか悩んだんだろう。
「そんなことは言わんよ。僕も結衣にはそばにおってほしいし。でもまぁ、そないに思い詰めんでも、まだ少し時間あるし、マンションに帰ってからゆっくり相談しよ」
そう優しく言うと、不安げに眉をひそめながら小さく頷いた。
ちょうどその時にスマートホンが鳴った。結衣と話をしている途中だったので、後でかけなおそうと思って放っておいたが、いつまでもなり続ける。
見るとタケからだった。
それは、山下社長が倒れたという連絡だった。
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