第3話   生きる力をつないでくれたもの

文字数 1,963文字

三が日を越え、数日経過しても症状は改善しない。
原因が不明でも、点滴や投薬は継続的に行われている。「今日は熱が下がるかな」「頭痛が治まるかな」と微かな期待を持ち、口内炎が一つ小さくなったとか、今日は少し気分が良いといった小さな変化にすがろうとするが、願いはことごとく跳ね返される。年があらたまれば何か変わるのではないかという根拠のない祈りも、聞き届けられることはない。
すべてのお正月行事が中止。見舞いに来た甥と姪に「退院したら年玉やるから、そんな顔するな」と笑ったが、首を振って涙ぐまれてしまった。日中はまだ気がまぎれるが、夜になると不安の波に乗り、死への恐れよりも、あきらめに似た何かが暗闇と静寂をつたって押し寄せてくる。横たわっていても眠れないため、ベッドに腰を掛け、カーテンを半分ほど開けて流れる車をぼんやりと見ていた。午前0時になると病院近くの小さな居酒屋の看板の灯りが消える。いつもより風が強いのか裸の枝が揺れている。

25年前に肝臓がんで亡くなった父が入院していたのもこの病院だった。殴られたことも声を荒げて叱られた記憶もない。渋い声と笑ったときの左笑窪が男前の優しい人だった。高三の時、毎日自転車でこの病院に通ったけれど、10年ほど前にその病室は建て替えられたため当時の面影はない。病室からの風景はぼんやり覚えているが、それがどこあたりだったのかはわからない。
倒れたときには手術もできない状態だった。まだ本人への告知がタブー視されていた時代であり、病名も病状も伝えてはいなかったが、父は長くないことはわかっていただろう。
同じ病院の窓から何を見て、何を考えていたんだろう。
あと二年でその年齢に追いつく。
「おとうさん…」
そうつぶやくと、父の面影が近くに、流れる車の灯りが遠い世界に感じた。

「矢代さん、眠れませんか?」
体を起こしているのがわかったのか、声をかけてカーテンから顔をのぞかせる。
「久しぶりやね」
「昨日、一昨日とお休みをいただいていました。マンションが天神さんの近くなので今年もひとり初詣にいってきました」
京都で天神さんと言えば、北野天満宮を指す。
「25分くらい?」
「バイクで通っているので15分くらいです」
「気ぃつけんと」
「はい、ありがとうございます」
少し前に悪寒が止まったので、体温が上がりきったのがわかる。慣れてきたとはいえ、全身の筋肉は強張ったまま、頭がボーっとして息は荒く、出せるのは一呼吸の短いフレーズだけ。ピピッという体温計の音が静かな電子音が響く。「40.8度あります。お薬取ってきますね。あとお水も冷たいのに替えてきます」と、床頭台に置いてある銀色のステンレスのマグボトルを持つと、静かに出て行った。
「ふぅ~」
木の揺れは、少し小さくなっただろうか。
「お待たせしました」
戻ってくると、丁寧にカーテンを閉じた。冷水を注いだコップを僕の右手に、錠剤をケースから出して左手に乗せると、背中を向けて窓の外を見つめる。
「やまびこさん、電気消えましたね。おでんと土手焼きが美味しいそうですよ。お客さんの八割がこの病院の関係者だそうですけど」
ひとりごとのように小さくつぶやく。
それには応えず、「ありがとう」とコップを返すと、「この間できなかった、話しの続きをさせてください」と、ゆっくりと片方ずつマスクを耳から外した。

「原因がわからないまま、二週間も高熱と頭痛が続き、眠れないのは本当に苦しいと思います。でもそれは矢代さんのお身体が懸命に戦っている証拠です。きっと、これまでと同じようにお仕事ができるようになります。そう信じて、気力を失わないでください」
そう言って、少し潤んだ瞳をじっと合わせた。
きゅっと引き絞った細い唇と左頬にできる窪みを初めて見た。涙袋が膨らんで、切れ長の一重の目から一筋の滝となり、口角へと流れ出る。それを拭うことせず僕の手を取ると、自分の濡れた頬に当て、そのままおもむろに紺色の制服の下にその手を差し込んだ。高熱に冒された手に、ひんやりとした、やわらかいものが触れた。
視点を変えながら繰り返しリプレイされ、その時の言葉、表情、手に残った触感が脳裏に刻まれていく。何が起きたのかわからない。頭の中には何もない。あるのは右手に触れた柔らかな乳房と、中指と薬指に擦れた少し固い突起物の感覚だけ。一方で、その残像、記憶が遠くなったり近くなったりしながら、事実だったのか妄想なのか、それとも夢を見ていたのかわからなくなっていく。
どのくらいそうしていたのだろう。気が付くと、残った温もりを目に焼き付けるように、手のひらを見つめていた。小さな風の音にふと顔を上げると、テーブルの上に、彼女の外したマスクがそのままの形で残っていた。ふらふらと立ち上がり手に取って鼻に当てると、ゆっくりと息を吸い込んだ。

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