第6話 四十路男のはじめてのナンパ

文字数 2,469文字

入院という非日常世界の住人が、突然目の前に現れるというのは、テレビの中の有名人と出会うのとは、また一味違う驚きがある。ライトブルーのデニム、ゆったりとした手編みの黄檗色のニット、白いダウンジャケット。眼鏡をかけておらず、髪を後ろにまとめていなくても、包み込むような柔らかな雰囲気は変わらない。その胸の高鳴りを押えるために、軽く両手を挙げたポーズで、彼女が近づいてくるのを待った。
「矢代さん、ご無沙汰しています。こんなところでお会いするなんてびっくりしました。その後のお体の調子はいかがですか?」
「こっちこそ。おかげさんで今のところ熱もでてないし、頭も痛とうなってない。でも、こんなところで会うやなんてホンマに奇遇やね。今日はお休み?」
「朝まで夜勤だったんですが、ちょっと欲しいものがあってお買い物に。そうそう、美味しいお餅をたくさんありがとうございました。御礼が遅くなってしまって。でも、本当にびっくりです」
土曜日の午後六時、河原町通はみんな忙しい。交叉点で客待ちをしているタクシーも、イチャイチャはよそでやってくれという顔をしている。
「せっかくなのでお茶でも?」と三条を経由して川端通りまできたが、買い物が終わって一休みの人と、これからの待ち合わせの時間が重なり、どこも座れそうにない。交叉点のいたるところに女性に声をかけるホスト風の若者がたむろしており、肩を並べて歩いているだけで、メニュー表をもった人達に次々と声をかけられる。
「昔は客引き言うたら水商売に限ってたけど、京都でも居酒屋の客引きさんが増えてきたなぁ。ホストやキャバクラとちごて、一人当たりの客単価や利幅もそれほど多くないやろに、どんなシステムなんやろか」
「さすが経営コンサルトさんは目の付けどころがちがいますね。でも今は客引きではなくて、キャッチって言うんですよ」
仕事をしているときの緊張感がないためか、軽く握った手を口元に当て、小さく肩を丸めようにしてコロコロとよく笑う。
「そうや、お腹すいてない? 夕ごはんはもう食べた?」
「えっ、まだですけど」
「よかった、僕もお腹すいてきたし、ごはん食べにいこか。御礼もしたいし…」
そう言うと、彼女は慌てて手を振った。
「それは困ります。看護師は私の仕事ですし、それでお給与をもらっているので、患者さんから御礼をいただくようなことではないので…」
彼女の言っていることは真っ当で正しい。照れ隠しの余計な一言で、せっかく近づいた距離が患者と看護師に戻ってしまう。
「ちょっと言い方を間違えたな。では、『河原町でオジサンにナンパされたので、仕方なく食事に付き合ってあげることにした』、という体ではどうやろ」
そう訂正すると、彼女は笑顔に戻った。
「それでは、『おじさん』と『仕方なく』を外させていただいて、喜んで御伴させていたただきます」
和洋中、フレンチからイタリアンまで食べたいものはないかと聞くと、彼女の答えは、「何でもモリモリ食べます」だった。僕の体力の回復とモリモリ食べやすいということで冬の焼肉となった。御所の東にある、高校の後輩夫婦が二人でやっている店に電話をかけ、小上がりの一つを押えてもらった。

この心地好さは何だろう。お酒が程よくクルクルと回る中で、彼女が休みに訪れたという奈良の大神神社の話に耳を傾けながら、その理由を考える。
一つは話しのテンポ。歳をとったせいなのか、テレビ番組の影響なのかわからないが、最近、会話のスピードがどんどん速くなっていると感じる。会議でもパーティでも、小さな隙間に車が割り込むように、我先にとさほど重要ではない話を被せてくる人が多い。僕が話をするのと、それを聞く彼女がそれに応えるあいだに小さな間合いができる。
「箸墓古墳のそばやね。卑弥呼のお墓やないかって言われてる…」
「さすが、よくご存じですねぇ」
それが全体としてゆっくりとしたテンポを生み出し、やわらかな心地好いリズムとなり、その中に惹き込まれていく。
もう一つは、食べ方がきれいなこと。ビールやお酒が少なくなれば、お酌をしてくれる人は多いが、自分のことには気が付きにくい。取り皿の上にいつまでも料理が残っているというのは見栄えのよいものではないし、お箸の持ち方や薬味の使い方にも性格が表れる。
細かなことを気にしながら食べても美味しくないと言えばそうだが、それらは特別なことではない。他人に強いるつもりはないけれど、意識を向けておかなければ、外でスマートに食事もできないというのは、基本的なことが身に付いていないからだ。
会話を引き出すのも上手く、普段は無口な店主も、肉の種類の違い、美味しい食べ方を嬉しそうに説明してくる。「少量なので売りものではないんですが…」「お口に合うかどうか…」と、頼んでいない特別な部位の肉や試作品だというデザートが次々とでてくる。
「今日はえらいサービスがエエなぁ」と言うと、「ハルさんが若い女性と来られるのは初めてですから。ホッとしました。なぁ、サチ」と、何がホッとしたのか、ヒグマのような店主が妻に声をかけ、笑顔を見せた。
きれいな日本語と患者の接し方を褒めると、はにかみながら嬉しそうな顔をした。
「ありがとうございます。それはゆかり先輩のおかげなんです」
5つ6つ年上だというから、33~34歳だろうか。僕が入院する少し前、昨年の9月に退職し、いまは東京の大きな総合病院で看護師を続けているという。
「最初はガン病棟に行こうと思っていたんですけど、ゆかり先輩がおられたから、内科病棟に配属希望を変更したんです。新人の時って、ナースコールや仕事が重なると、どうしても焦るんです。そんな時は、『私たちの仕事は流れ作業ではない』『言葉が上辺だけのものになってる』『あなたの役目は何なのかよく考えなさい』って、よく叱られました」
「一番やわらかい新人の時に、素晴らしい先輩に会えてよかったね。三つ子の魂っていうけど、それは看護師としてだけやのうて人生の宝物やね」
そう言うと、恥ずかしそうに笑いながら、赤くなった目で何度もうなずいた。

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