第23話 山下染工という会社

文字数 2,559文字

山下繊工は、東京の下町にある高機能繊維に特化した繊維メーカー。
繊維には、代表的なものとして、コットン(綿)、麻などの植物繊維、ウールやシルクなどの動物繊維、ナイロンやアクリルなどの合成繊維などがある。従来からあるこれらの汎用の繊維を加工することで、吸水性や撥水性などの水分特性や、強度、耐熱性などを高めた高機能繊維というものが注目されている。
抗菌防臭素材や形状記憶素材などもその一つ。種類の違う高分子を合わせたり、セラミックなどの機能剤を添加するなどして、様々な高機能の繊維が作り出されており、被服業界以外からの注目も集まっている。
山下繊工は、山下社長を筆頭に、アイデアも技術も素晴らしく、多くの特許を取得しているが、それをお金に換えるのが下手という典型的な日本型の中堅企業だった。そのマーケティング全般について、当時、務めていた会社に依頼があったのは(都市は忘れたが)オリンピックの年だったと記憶している。
繊維というのは化学(バケガク)と大きな関係があり、六角形の亀の甲羅のようなものが、いくつもつらなった化学構造式の世界である。最初はコンサルティングをしているのか、繊維や高分子の勉強に行っているのかわからない状態からスタートした。全くのド文系である僕にわかりやすく、丁寧に講義をしてくれたのが、山下社長の次女であり、その年に大学院を卒業し、繊維工学の博士号を持つ山下美穂子だった。
同社は、主に異種ポリマーの重合と溶融紡糸法、繊維形成段階での中空化という技術に強みを持っており、それを使って、高い耐熱性と軽さを併せ持つ、新しい高機能繊維の開発に成功していた。

マーケティングというのは、短期間にたくさんの商品を売れば良いといった単純なものではない。現段階での商品性は申し分ないが、高機能繊維は日進月歩で進化している競争の激しい分野であり、大手を中心に次々と競合する素材がでてくるのはわかっている。当時、僕が戦略として立てたのは、その有用性をどのようにアピールし、かつその広がりをどのようにコントロールしていくのかという、開発した商品だけでなく、企業価値の向上も含めた長期的な視点からのアプローチだった。
100点満点というわけではないが、ある程度、想定通りに進んだといっていい。
業界の中でも大きく取り上げられ、会社の知名度は一気に上がった。それほど大きくはないが、技術力とアイデアのある会社として認知され、その開発力や技術力に対して、行政やマスコミからの問い合わせも増えた。その広がりは国内の被服関連の業界だけでなく、海外の自動車や航空、宇宙開発企業など、業種を超えて様々な分野に及んだ。
ここで物語が終われば、「めでたし、めでたし」だったが、この拡大が別の角度からの歪みを生み出す。
それが、「株式上場」だ。

東証やマザーズなどの市場に株式を公開し、売買可能とすることを上場と言う。
東京証券取引所の定めた一定の基準を満たす必要があるため、「上場企業=大企業=優良企業」というイメージでとらえる人は少なくない。社会的な信用度が高まることや、銀行借入ではなく、株式市場を通して直接に資金調達ができるなどのメリットがある。
一方で、投機的資金が大量に流れ込むために、株価が乱高下し、必ずしも安定的な資金調達につながるとは言えない側面もある。また、年度単位の短期利益を求める株主の要求に応えつつ、かつ長期的な視点に立って経営を続けるということは容易ではない。総会屋への対策、M&Aや企業買収によって、経営権が不安定になるなどのデメリットも多い。
特に、山下繊工の場合は、工場建設など設備投資の計画はなく、すぐに大きな資金を必要としているわけではない。業界内だけでなく社会的な信用力はすでに高まっている。
高機能繊維という特性を考えても、研究開発には資金や時間がかかり、そのすべてが想定通りの果実を生むとは限らない。競争相手も多いことから、今回のようなスマッシュヒットを連発できるわけでもない。逆に、そのノウハウや技術力、特許を合法的に手に入れたいという企業は、国内だけでなく、海外にもたくさんあり、ハゲタカと呼ばれる企業を食い荒らすファンドのターゲットにもなりやすい。M&Aに対する防衛策はいくつかあるが、株式を上場すれば、その性格上、その最終的な勝敗は市場原理という資金力によって決まるため、経営権を守る絶対的な方法はない。
上場の基準に達していることはわかっていたが、その段階ではメリットよりもリスクが高いと考えていた。将来的に視野に入れるとしても、まずは長期的なビジョンを策定し、その上で冷静に検討すべき事柄であり、ここしばらく業績が良いからと勢いだけでバタバタと行うようなことではない。そう何度も繰り返し進言した。しかし、業績拡大の中で、メインバンクの銀行員である長女の夫が、株式の上場に向けて積極的に動き始めていた。

この手の話は、長期的、多角的視点からの論理的なディベートではなく、様々な思惑の中で、目先のメリットと都合の良い推測に支配されていく。美穂子は、二人姉妹で男兄弟はいない。都市銀行に勤める長女の夫は、僕と同い年の昭和51年生まれ。線が細くエリート臭とポマードが鼻につくが、特別な野心家というわけでもなく普通の真面目な人だ。
ただ、ゆくゆくは銀行を退職し、山下繊工の次期社長になるという程度の腹積もりはあったらしい。社内で美穂子やその婚約者の評価がたくなるにつれ、内心穏やかではなく、自分の得意分野での目に見える大きな成果を焦っていたのだろう。
ただそれは、彼の責任だけだとは言い切れない。
上場ともなれば、その主幹銀行や証券会社の手数料収入も大きなものとなるため、都合の良いように経済情勢の方向性を設定し、功名心をくすぐりながら攻勢をかけてくる。特に、その当時の銀行支店長は、猛烈なアプローチを仕掛け、本部役員まで何度も投入するという熱の入れようだった。更に、中規模のコンサルティング会社としても、上場会社を育てたと社外にアピールできるため、自分の会社の上司とも意見が衝突することになる。僕が社長の次女と結婚を前提に付き合っていることは周知であり、そのことから冷静なコンサルティングができていないのではないかとも言われた。
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