第7話 寒空のスマホメールデビュー

文字数 2,438文字

「結局、ごちそうになってしまって、ありがとうございました」
「どういたしまして。でも、ようけ食べたのにいつもより安かった。何でやろ…」
マンションの近くまでタクシーで送るといったのだが、今出川通りにでれば、バス一本で帰れるので大丈夫だと言いバス停まで歩くことにした。
「外食は、ようするん?」
「友達と休みが一緒になれば、たまに外で食べるという程度でしょうか。こう見えても、お料理好きなので、基本的には自炊です」
京都御所の東通りは細いため、人も車も少なく、とても静か。
「矢代さんは、東京にもおられたんですか?」
「どうして?」
「お話しされている時のイントネーションや方言が、京ことばだったり標準語だったりするので、そうかなって思ってたんです」
「御明察の通り、大学卒業するまでは京都にいて、そのあと5年前まで16年くらい東京で仕事してた。まだビジネス日本語と日常会話の関西弁が混乱してるかな? 最近は九州とか名古屋とかの人とも話するから、雑多ななまりがまじってるんやろな」
いまの混乱は、気持ちが上ずっているからだとわかっているが、それは口にしない。
一代のミニバイクが音を立てて通り過ぎていく。お昼間はあれほど良いお天気だったのに、きらきらとした星空から、粉雪がちらちらと落ちてくる。会話が止まり、少し後ろを歩く、彼女が少し緊張しているのがわかる。
「あんなことをしてすいませんでした。退院されてからも、矢代さんに変な看護師だと思われたんじゃないかと、ずっと心配していたんです」
「とんでもない。僕はあの時、頭のどっかで、あきらめというか、このしんどさが終わるなら、もうどうなってもええかって気持ちになりかけてた。驚いたけど、結衣ちゃんの心からの励ましで、今こうしていられる。ほんまに心から感謝してる。ありがとう」
彼女の方を向いて、頭を下げると、小さく首を横に振った。
「お正月の休みの間、きちんとお話ししなければいけない、どうすればいいんだろうって、ずっと考えていたんです。ゆかり先輩にも相談したんですけど、矢代さんのことを知らないからアドバイスできない、自分でじっくり考えなさいって突き放されてしまって。いまでも、あの時どうしてあんなことをしたのか、自分でもよくわからないんです。でも、お元気になられて、本当によかった。退院される時は寂しかったですけど、またこうしてお目にかかれましたしね」
顔を上げた時にぶつかった、きらきらした目が眩しかった。
「あれは、熱に浮かされた夢ちゃうかと思てたんやけど、この右手が、あれは絶対に夢やないって言うんやなぁ」と指をひくひく動かすと、それを両手で隠すように覆い、「もう恥ずかしいから、忘れてください」と赤い顔でじゃれるように声を上げた。
京都御所と同志社大学を隔てる今出川通りを、東から西に向かう203系統の巡回バスは、到着まであと五分という表示がでている。
「今日は楽しかった。よかったらまたご飯食べよね」
「そうだ、今度、今日のお礼に私が手料理をごちそうします。お口に合うかわからないですけど、よろしければお越しください」
「ホンマ? それはまた家に帰って、夢かうつつか悩まんとあかんなぁ」
笑っているうちにバス停の表示が【間もなく】変わる。
「ホントに約束ですよ。矢代さん、お休みはいつですか?」
「土曜日と日曜日は、特別なことがない限り仕事を入れんようにしてる」
「月曜日に来月の勤務表がでるので、予定を見てご連絡しますね。あと、メールアドレスとお電話番号を教えていただいて良いですか?」
「はいはい、看護師さんの仰る通りにいたしますよ。でもスマホでメールなんてしたことないし、メールアドレスも操作の仕方もようわからんのやけどね」
ネットもメールもすべてパソコンという人間からすれば、携帯電話は本来の電話の機能さえあれば良い。一応スマホだが使うのは時計機能くらいで、ラインもSNSもしない。
ごそごそと触っていると「ちょっと貸していただけますか?」と僕のスマホを受けとる。「よかった。同じアンドロイドですね」と手慣れた様子でいくつかのボタンを押すと、交差させるように、目の前でハの字に近づけた。「エイ!」という掛け声とともにピピっという音が鳴り、スマートホンの中に、彼女の名前や電話番号、メールアドレスが登録された。
「これで完了です。このスマホは赤外線でデータをやりとりできるんですよ」
「へぇ、そないなことができるんや。でもそれ、どことなし、いやらしいというか卑猥やな」と言うと、「そんなことをいう人、初めて見ましたよぉ」と、またコロコロと笑った。
手を振る彼女を見送ってからもタクシーに乗る気にはなれず、鴨川におりて、コートに手を入れたまま遊歩道を歩いた。府立医大を越え丸太町に近づいたところで、胸ポケットに入れたスマートホンが、初めて聞く電子音と共にブルブルと震えた。

【今、家に帰りつきました。本当にありがとうございました】
【美味しくて、楽しくてまだドキドキしています】
【頑張ってごちそうしますので、お時間空けてくださいね】
【ではまた、月曜日にご連絡します。取り急ぎお礼まで】
                     【佐々倉結衣】

使ったことがなくても、返信を押して、平仮名のボタンを押していけば、文章ができるということくらいはわかる。

【こちらこそありがとう。本当に楽しかった】
【では来月、またお会いしましょう。楽しみにしています】
【明日お仕事がんばって。おやすみなさい】
                      【笑窪の素敵な看護師さんへ】

小さな「っ」と濁点、句読点の入力に苦労した。いつものパソコン入力だと、ほんの十秒で書ける文章が、寒空の中、冷たい手を擦りながら15分くらいかかった。
空気が澄んで、冬の星座が煌めいている。気が付くと、となりのベンチでは、熱い抱擁の真っ最中。ポケットに手を入れたまま鴨川を歩いて家まで帰った。
家についたのは、11時を過ぎていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み