第24話 山下美穂子という元婚約者

文字数 2,142文字

いまから思えば、そうだったのかもしれない。
いや、きっとそうだったのだろう。
他社であれば、丁寧にリスクを説明し、反対はするが、最終的に社長や経営陣が決定したことであれば、静かに引き下がっただろう。しかし、山下繊工との距離は、近くなりすぎていた。最初から、「何をバカなことを」という強い苛立ちがあり、僕が反対すれば、冷静に話をすればわかってもらえるはずだという甘えもあった。正論で説き伏せようとする前に、何らかの妥協点を見出す努力をしていれば、決定的な対立を回避する方法はいくつもあっただろう。
最終的に、その方向性を決定づけたのは、山下社長を含めた家族会議(会社法的に言えば、同時に取締役会兼、株主総会でもある)の中で、長女の夫が、次の三月に銀行を退職し、専務として会社に入ると表明したことだった。僕は経営を支援したいとは思っているが、美穂子と結婚しても、直接的に経営陣として加わる気持ちはないことを伝えていた。
コンサルタントは、あくまでアドバイザーであり、最終的な決定権は経営者にある。
そこで、すべてが決まった。誰も僕の目をみようとはしなかった。突き刺さったのは、美穂子の潤んだ哀しい目だけだった。
それからしばらくして、社内の移動ということで山下繊工の担当を外され、コンサルティング会社として上場を支援するという形がとられた。

美穂子と付き合いはじめたきっかけは何だったろうか。
小顔で足も長く、よく見れば美人で可愛い。ただ、当時は、そばかすもそのままに化粧もせずファッションも気にしない、髪をゴムひもでざっくり括って、休日も会社の実験室にこもっているような、ソフィスティケイトされていない化学女子、そのものだった。職業倫理というべきか、担当先の女性を恋愛の対象として見ることを意識的に避けるという習慣がついているが、最初はそのブレーキさえも必要なかった。
二人の仲を近づけるような、何か特別な事件やきっかけがあったわけではない。「付き合って下さい」「御付き合いしましょう」と言ったこともない。あらたまったプロポーズもしていない。仕事の上で、週に何度も会って、遅くまで高分子や繊維の基礎知識や面白さを教えてもらい、たまに一緒に夕食を取るようになり、お酒も飲むようになり、プライベートな話をするようになっていった、というところだろうか。
研究室に残るよう大学から説得されるほど、優秀だと聞いていたが、普段は、少しポーッとしていて、おっちょこちょいで、可愛い人だった。付き合い始めてから、どんどんきれいになっていったし、その変化に、僕よりも先に、周囲の人が気づいた。
キスをした後の恥ずかしそうな顔、手の中にすっぽりはまる感度の良い小さな胸、仔犬の鳴くような喘ぎ声。考える時に左上を見る癖、小さな顔に似合わない豪快なくしゃみ、「約束ですよ」と顔の前で左小指を立てるしぐさ。全部、全部が好きだった。
二人で京都まで母に会いに行ったときは、向かう新幹線の中では緊張してほとんどしゃべらず、帰りの新幹線の中では大興奮していた。仏像が見たいというので、僕の大好きな、広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」と東寺講堂の「立体曼荼羅」、三十三間堂の「婆藪仙人像」を駆け足で見て回った。あのころは本当に楽しかった。

分かり合えないストレスよりも、互いの気持ちをわかりすぎている心労のほうが大きい。暗い影が覆うにつれて会話も少なくなっていく。わずかな楽しい時間が、思い出話に占められるようになると、残された時間はそう多くない。もう二人一緒に京都に行くことはないと、お互いにわかっていた。
美穂子だけでなく、研究者、技術者としては超一流だけど、経営者としてはチョット頼りない、酒好き、ダジャレ好きの剽軽な山下社長の笑った顔が好きだった。自分の母親とは全くタイプの違う、下町のおばちゃん感たっぷりのチャキチャキ、ぽっちゃりした美穂子の母も、僕のことをとても可愛がってくれた。
もう一度、誰かを父と呼ぶことができる、そのことだけで嬉しかった。
ただ、その機会は永遠に失われた。
残ったのは、自分に対する嫌悪感と、言葉にできない疲労感だけだった。
これまでも事情を知る何人かの人が、その後のことについて、おべっか半分、おためごかし半分、そして面白半分で連絡してきたが、興味がないからと聞く耳を持たなかった。頼みもしないのに連絡してくるやつらが、嫌悪に近いほど不愉快だったし、過去の話、違う世界の話として、もう近づきたくないというのが本音だった。それがわかっているタケは、年賀状のやり取りだけで、この五年何も言ってこなかった。ここ二年ほどは、その会社の名前を聞くこともなかった。
今日、連絡したのも、山下染工や美穂子のことが聞きたかったわけではない。いや、「色々、あったな…」「そうですね。皆さん元気ですかね…」くらいの話をして、意固地に背を向けていた自分に一区切りつけたかっただけなのだ。
「その後のことは、何もご存じないということを前提に、整理しました」
そう言うと、クリアケースの中から十数枚はあると思われる資料を出した。その言葉に、ブラックホールに引きづり込まれるような不安を覚えたが、ここまでくれば、どっちに転ぶにしても黙って話を聞くしかない。
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