第9話 お酒を飲んでしまうと今日は帰れなくなる

文字数 1,888文字

鳥鍋をメインに、鳥肝の甘辛煮、鳥刺し、サラダ、それとだし巻き卵とキャベツの浅漬け。
彼女のような控えめなタイプの女の子が、料理が得意なので食べに来てくださいと自らハードルを上げるからには、どんなハイカラなものが出てくるのだろうかと期待していたが、なんと和食、それも上手とか得意と言ったレベルではない。
最後に、冷えた二つのグラスと瓶ビールが、和風の丸いお盆に乗って出てくる。
「お飲物は、まずビールでいいですね?」
栓抜きで蓋をキンキンと二回たたく古風な作法で、栓を抜くと、「どうぞ」とかわいくついでくれる。「トクトク」という音も、ひとりの手酌とはどこか違う。
「では、いただきます」
両手を合わせてそう言って軽く頭を下げ、まずはビールを一口、それから鳥胆をもぐもぐ。もう一度ビールを一口飲んでから、だし巻き卵を箸で半分に切って口にいれる。
審査を受けているかのように、正座をしたまま、じっと僕の顔を見ている。
「これ結衣ちゃんが作ったん?」
「はい。ちょっと頑張りました。お口に合いますか?」
我が家は裕福な家庭だったわけではないが、大きな商家の一人娘だった母と一緒に祖父に連れられ、子供のころから、京都の一流どころの料亭に食事に出かけた。それは月例行事であり、父が亡くなった後も、僕が東京に出るまで続いた。グルメではないが、特に和食に関しては美味しいとはどういうことか、わかっているつもり。
「びっくりした。ホンマに美味しい」
そう言うと、ほっとしたように、「では、私もいただきます」とエプロンを脱いでソファにかけ、注いだビールを美味しそうに飲んだ。
鳥鍋は、単なる水炊きではなく、鳥を丁寧に煮込んで作った白濁したスープがベースになっている本格的なもので、今日一日でできるものではない。味の濃淡だけでなく、だし巻きは梅おろしを添えて少し冷たくしてあるなど、温冷のバランスも考えられている。
「こんな本格的なお料理、どこで覚えたん?」
「子供の頃からお料理は好きだったんですが、ちゃんと教えてもらったのは京都に来てからなんです。先日お話しした、ゆかり先輩のお姉さんが、板前の御主人と小さな京料理のお店をされていて、お休みが一緒になると、教えていただいていたんです。今でも、かわいがっていただいているんですよ」
その店の名前は知らなかったが、その主人が板前修業をしていたという「さくらぎ」は、子供の頃から何度も行ったことのある、京料理の有名店の中でもその筆頭格と言って良い名店だ。
「実は、チョットだけ助けてもらったんですけどね」と舌をペロリと出した。
「なるほど、それで納得がいった」と笑うと、「本当にちょっとだけですよ」と、むきになる笑窪。
「鳥鍋だけやのうて、だし巻きも、火加減も上手になめらかに巻いてあって、しっとり口当たりも良うてほんまに美味しい。ほんまにびっくりした。大したものです」
そう言うと、少し照れながら指で小さくVサインをして笑った。
「このマンションも、九月までゆかり先輩が住んでおられたんです。だからソファもベッドも、全部そのまま置いて行かれたので、とても助かってるんです」
そう言えば、趣味が悪いわけではないけれど、ソファやベッドだけでなく、カーテンの色も濃い緑色で統一されており、彼女のイメージからは多少の違和感がある。
「でもこない立派なマンション、お家賃結構するんとちゃうの?」
「そうですね。お風呂も広くて、たまに友だちがくると、みんな驚きます。でも、大家さんのお孫さんが来年の四月に京都の大学に来られる予定なので、ゆかり先輩が出られるときに、それまでというお約束でずいぶん安くお借りしているんです」
「結衣ちゃんは、仰山の人に愛されてるんやね」と言うと、彼女は一瞬、胸を突かれたような顔をしたが、「本当にそうだと思います。ありがたいと思っています」と、下を向いてポツリ、しみじみと言った。
ビールは最初の一本だけで、その後は、彼女がそのお店からもらってきたという、ラベルのない一升瓶に入ったサラサラと水のように飲みやすい辛口の冷酒になった。
「この日本酒、美味しい。どこのやろ」
「ほんとう、透明感みたいなものを感じますねぇ、どこのでしょう…」
ピンクに火照った首筋を通って、さらさらと流れていく。
鳥鍋のあとは、雑炊ではなくスープを調整し、小さじ一杯程度の豆板醤と中華めんを入れて食べた。敷居の高い料亭ではできないアレンジで、これもまた抜群だった。

最初から気が付いていた。
大雨だったために、僕は自分の車で来ている。
彼女もわからないはずがない。
お酒を飲んでしまうと、今日は帰れなくなるということを。
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