第21話 祖父の大往生、母の突然の死

文字数 2,901文字

東京での生活は15年に及んだ。
京都に戻ってきたとき、母は63歳、祖父は88歳で米寿を迎えていた。
京都に帰ってきた理由について、色々と話は聞いていただろうが、祖父にとっては、そんなことはどうでもいいようで、僕のことを知らない人にまで誰かれなく「ハルが帰ってきた」と言いまわり、周囲の人を困らせていた。
養子である兄やよくできた兄嫁、かわいい三人の孫(実質的にはひ孫)に囲まれ、90歳という長寿を保ち、僕が帰って2年後に身罷った。
寝付くようになったのは、最後の一ヶ月くらいで、それまでは僕を引き連れ祇園町によく出かけた。僕が一緒だと安心するのか、すぐに酔っぱらって、うとうとしだすため、祖父のことを若い頃からよく知るお茶屋のおかみや、大昔の訳ありのクラブの大御所ママには、「ハルちゃんも、老人介護が大変やね」と笑われていた。
桜の下で、前年に生まれた真琴を抱いたときの、嬉しそうに微笑む写真が遺影となった。入院もせず、家族だけでなく従業員のみなさんにも看取られながらの、まさに畳の上での大往生だった。医師による死亡確認が終わった後、従業員の皆さんのすすり泣く声の中、僕は、「じいちゃん、長いことお疲れさん、おおきに」と言い、兄は、「おじいさん、おとうさん、ありがとうございました」と頭を下げて、ポロリと涙を流した。
兄が養子になると告げた時から、22年の歳月が経っていた。

母の死は、あまりにも突然だった。
祖父が亡くなってちょうど一周忌が終わり、三週間ほどしか経っていない、春から初夏に向かう日のことだった。その日は、何かいつもと違う、ひんやりとした静寂の中で目が覚めた。時計の音も聞こえず、部屋の中の時間が止まってしまったような気がした。身体を横たえたまま、ふと隣を見ると、母はまだ、眠っていた。
そして、そのまま目覚めることはなかった。異変気づいて、飛び起きたが、西陣小町と呼ばれたきれいで穏やかな母の顔は、そのまま冷たくなっていた。布団を上げて背中に手を入れると、身体の深部にはまだ微かな温もりが残っていたが、もう戻ってこないことは明らかだった。
「母さん。母さんは、やっと父さんのところに、行けたんやな」
髪の毛をなでて、冷たくなった頬を合わせ、最愛の母の顔をずっと見ていた。
どれくらいそうしていただろう。いまでも、その時の時間の感覚がない。気が付くと、顔と寝間着の襟が濡れていた。それから「こういう時は119番、110番のどちらだろう」と迷ったが、とりあえず119番にした。そして一つ深呼吸をして兄に連絡をした。
救急車が近づいてくる音を、母の髪を撫でながら他人事のように聞いていた。

救急隊員は、丁寧にかつ申し訳なさそうに、「すでにお亡くなりになっているので、病院には搬送できません」と言った。もちろんそうだろう。最愛の母とはいえ、すでに蘇生を願うような状態でないことはわかる。
「警察にも連絡した方が良いのでしょうか」と問うと、その答えを聞く前に警察官が10人くらいやってきた。このように自宅で突然亡くなった場合は、死亡原因がわかるまで、「不審死」として取り扱われるため、救急隊から直接警察に連絡がいくらしい。そのため、冷蔵庫の中を調べたり、外部からの侵入がないか、直前に何を食べたか、何時頃に寝たか、いつまで生存を確認していたのか、昨日の夜の様子はどうだったか等について、細かく聞かれた。鑑識の人も入り、テレビドラマの殺人現場のようだと言えば少し大げさだが、それに近いものとなった。更に、今の法律では、一度警察病院に運んで検視ということになるという。
こちらからすると、「なんなんだ…」と思うけれど、そちらからすればそうだろう。面倒なことだが、それが決まりであれば現場の警官に文句を言っても仕方ない。

携帯を鳴らしたとき、兄は神戸にいた。兄の妻である久美ちゃんが、とるものもとりあえず駆けつけたのは、警察の検証が始まったころだった。義姉は、僕より二つ年下の、老舗和菓子屋さんの長女で、形式的にはお見合い結婚だが、祖父と和菓子屋の先代とは仲が良く、お互いに小さい頃から良く知っている許嫁に近い間柄だ。大学でデザインを学んでいたため、色彩感覚が素晴らしく、どちらがボケかツッコミか、本当の母娘のようにコンビネーションもよかった。突然、こんなことになって、一番ショックを受けたのは彼女だろう。
いつもたおやかで、チャーミングで楚々として非の打ちどころのない人が、化粧もせず、スカートの裾も髪の毛の乱れも気にせずに、「お義母さん、お義母さん」と、取りすがって泣いているのを見て、不謹慎にもどこか色っぽいものだなと思った。
警察の検証作業は、一時間くらいかかっただろうか。
最初は、警察病院に搬送する必要があると言われていたが、三軒隣の我が家の40年来のかかりつけ医が顔を出してくれ、母はずっと心臓が悪かったこと、先日も診察したことなどを説明し、死亡届は自分が責任をもって出すと言ってくれたので、協議の上、検視搬送とならずに済んだ。母の身体に触られたくなかったし、本当にありがたかった。
サイレンの音を聞きつけて近所の人たちも、何事かと集まってくれていたため、僕の方から事情を説明した。警察が帰った後、たくさんの人がお悔みに来てくれた。
「久美ちゃん、悲しいのは後にして、こういう時こそ、しっかりやろう」と声をかけ、二人で座布団やお茶を出したり、故人がお世話になったお礼を言って回った。
兄と子供たちが来たのは、お昼くらいになった。義姉は、鼻をすすりながらも気丈に振る舞っていたが、兄の顔をみて、子供のように抱きつき、もう一度泣き崩れた。

何となく、こうなることはわかっていた。というか、どこかで覚悟していた。
60歳になった時、母は会社の取締役をはじめ、着付け教室の代表など、表立ったことはすべて久美ちゃんに譲っていた。それ以前から、奥向きのことも、少しずつ次の世代に移すための準備をしていたという。僕が東京から帰ってきたときも、祖父同様に、退職や破談の事情など聞く気もないようで、四十路を歩きはじめてからも、毎日たいした仕事もせず、ふらふらしている息子を、嬉しそうに踊りや芝居に連れ出した。
祖父が亡くなった時、周囲は母のことを心配したが、僕の目からみれば、どことなく、ほっとしたような顔をしていたのが印象的だった。
そう言えば、10日ほど前だったか、また「ハル、そっちの布団に入れてもうてエエ?」と添い寝をせがみ、布団に入ってきた。「母さん、20年前よりもちょっと痩せたなぁ」と肩を抱き寄せると、「おばあさんでかんにんね」と言って笑った。
いつまでも、どこまでも、最後まで可愛い人だった。
母はずっと父に会いたかったのだろう。父との人生が母のすべてであり、父がいなくなった以降のことは後日談でしかない。生家や子供のためというのではなく、父にもう一度会った時に褒めてもらえるよう、ただただ懸命に生きてきたのではないかと思う。

仏壇の前で眠ってしまったようで、時計を見ると、夜の二時を超えていた。
写真の中で寄り添う父と母は、優しい顔で僕を見ていた。

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