第11話 はじめての朝

文字数 1,894文字

浴室のドアが開く音で現実に戻る。かすかに聞こえるドライヤーの音に、収まっていた鼓動が、また少しずつ早くなっていくのがわかる。リビングの照明が消え、グレーのステッチでふちどりされたレモン色のパジャマが、廊下の小さな灯りを背にしている。
「こっちおいで」
ドアを背に動こうとしないために声をかけると、おずおずと近づいてくる。上京区内のドキドキを一身に吸い取ってきたようで、僕の緊張は少し収まる。
「雨は止んだようやね」
そう言うと、こくりと頷いて、僕のとなりに半身になって座った。
彼女が何か言うまで待っていた。少し時間がかかった。
「この間、お目にかかってから、うれしくてうれしくて、今日が来るのを本当に楽しみにしていたんです。何作ろうかとか、何がお好きだろうかとか、酔っぱらったふりして抱きつこうかとか、そんなことしたら嫌われるかなとか…」
うつむいたまま、小さく上ずった声で、訥々と話す。
「でも、いざとなると、みっともないくらい緊張しちゃって」
カーテンの隙間から漏れる月明かりの中、うつむいた横顔に愛しさがこみあげてくる。
「どれどれ?」
おもむろに体を起こして、おどけたように彼女の胸に耳を当てる。パジャマ越しに柔らかな胸が頬にふれる。
「ほんまやね、ドッキンドッキンいうてますね…僕はどうやろ?」
と、今度は彼女を抱き寄せ、僕の胸に彼女の耳を当てる。
「看護師の佐々倉さん、聞こえますか?」
「ドキドキしてます」やっと顔を上げて、僕の目を見た。
「僕は君よりも長く生きてるけど、そない経験があるわけではないし、女の子と初めてこんな風になる時は、同じように期待もするし緊張もする。お互いさま」
彼女はじっと僕を見つめていたが、はじかれたように首に抱きついてきた。ゆっくりと体を外し、久しぶりのファーストキスをした。
「でも今日は無理せんでもいいよ。夜勤明けで準備してくれたから、あんまり寝てないやろ」
髪を撫でながらそう言うと、子供が「いやいや」をするように首を横に大きく振った。
「じゃあ、二人でドキドキしなから、しよか」
そう言うと、泣きそうな顔で少しだけ微笑んで、もう一度くちびるを重ねた。

昔から、行為のあとはいつも女性の左側に横たわる。それでは利き手の右手が自由に使えない(また朝にしびれる)と、半可通のプレイボーイからご高説を賜ることもあるが、これは癖というか習い性であり、反対側ではうまく眠れない。
あの日、僕の命をつないでくれた柔らかい胸の感触が、耳朶に残る柔らかい薄紅色の吐息とともに、ぬくもりとしっとりを保ったまま手のひらに残っている。
呼吸も収まり、右肩に乗って、じっとこちらを見ている。黒髪を左手で撫でながら、キラキラと光るおでこにキスをすると、夜具に顔を当てながら恥ずかしそうに、右手を回して身体を寄せてくる。
「わたし、とっても弱い人間なんです。自分を嫌いになってはいけないと思いながら、色んなこと思い出して、いつまでもクヨクヨしてるんです」
「それは、むかし付き合ってた男の子のことかな?」
しばらく考えた後でそう言うと、ようやく力を抜いて、ニコニコしながら首を横にする。
「残念ながら、胸を引き裂かれるような大恋愛をしたことはありません。でもこんなときにそんなこというと、そう思いますよね」
「よかった。想い出と戦うのは大変そうやし」
そう笑うと、押し付けられた腰の黒い陰毛が柔らかに僕の大腿をなでた。
体を重ねて共有するのは愛情や情熱だけではない。歳を重ねて増えていく記憶は、後悔の方が多い。人に傷つけられたことを思い出す人もいれば、人を傷つけたことを思い出す人もいる。色々と自己弁護をしてみても、最後まで残るのは後者のほうが多い。
「これからもたくさん話しよ。でも僕は結衣ちゃんが思ている以上にオジサンやから、これからも優しいしてね」
「はい」
「昨日はあんまり寝てへんのやし、風邪をひくから早くパジャマ着ておいで」
「もうちょっとだけ」
そう言うと、じっとりしている身体を密着させ、僕の身体の匂いをかいだり、子猫のように顔をすり寄せていたが、ソファの上のパジャマと下着を持って脱衣室に走った。恥かしそうにプルプルと震える丸い白いお尻がかわいく、とても官能的だった。
寝不足と緊張から解放されて、安心した顔でスース―と寝息を立てている。女性の部屋で眠るのは、六年ぶりになるだろうか。新しい恋に出会うと、その直前の実らなかった想いが顔を出してくるのは仕方ない。
(目が覚めると、まだ病院やったということもあるかもしれんな)
(彼女は、看護師姿で、点滴準備をしているやろか)
そんなことを思いながら、いつの間にか眠ってしまった。
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