第26話 ピアノのタッチミスが頭に響く夜

文字数 1,613文字

タケの用意した資料の説明が終わった。30分くらいだったろうか。僕は、その間、一言も口を挟まなかった。こうなることは最初からわかっていたと言えば、言い過ぎだろう。リスクをもっと真剣に検討しなければならなかったと、今更、批評する気もない。怒りもなければ、現状に対する嘲りもない。
「ありがとう。よくわかった」
バーカウンターの上で広げられた場違いな資料を軽くまとめ、もう一度クリアフィルに入れて返すと、彼は一瞬の躊躇のうち、それを受け取った。
長い沈黙のあとで、再びタケが口を開く。
「もう一つ、山下のおやっさん、今週の初めに検査で脳梗塞が見つかって、入院されているそうです。命に別状はないようですが、左手に軽いしびれが残るんじゃないかって言ってました。今は洋さん(対立した長女の夫)が副社長になられて、対応されているようですが、こうなってしまうと社員からも銀行からもまるで信用がなくて、色々と苦労されているようです」
勝手なもので、上場を積極的にバックアップしたのは銀行であり、当時は社員の中にも、「うちの会社、上場するらしいぞ」と賛同する声が多かった。
向こうで、お姉さんが豊満な胸を自慢げに揺らせながらピアノを弾いている。彼が言い難そうにしていることから、次に誰の話をしようとしているのか想像できる。
なんという曲だったろうか。ちいさなタッチミスがいちいち頭蓋に響く。

「二年前に美穂子さんが大学の同級生の方と、ご結婚されたのはご存じだと思いますが、一年前に、男の子と女の子の双子を出産されたそうです。ただ、洋さんと社員との間を取り持つために、お母さんに子育てを任せ、ほとんど休みを取らずに、出勤されているそうです」
「そうか」と答えたまま、目でバーテンにチェックを合図した。
エレベーターの中で、彼は階数ランプが静かに下がっていくのを見上げたまま、僕に連絡しようと思った理由を話した。
「実は、先日、奥様から携帯に電話がありました。おやっさんが会社を通さずに私に会いたいと言われているそうなので、お見舞いがてら行って来ようと思っています」
言いたいことは、わかっていた。おやっさんや奥さんが会いたいのは僕だろう。でもそれを言い出せるような関係にはない。あの人達のことだ、タケに連絡するのも相当に逡巡、躊躇されただろう。美穂子に相談しないまま、お母さんが渋るおやっさんを押し切ったんだろう。
当時は、相棒である僕の手前、山下社長や洋さんのふがいなさ、銀行や自分の会社のいい加減さに、「どうなろうと俺らにはもう関係ないですよ」と怒っていた。でも一緒に笑ったり泣いたりした人達の船が方向性を見失い、波状攻撃を受けて、なすすべもなく傾き沈んでいくのを目の当たりにして、苦しんでいたのだ。保身第一部長に伝えても、「わたしたちには関係ない。手だしするな」と言うだろう。その通りだ。タケは裏表のない、銭金や損得では動かない男気のあるとてもいいやつだ。でも、いまはそれさえも恨めしかった。
ビルの前で、酔客や見送りのホステスさんが通り過ぎる中、何を話せば良いのかわからず黙っていた。彼もそれ以上、何も言わなかった。
「タケ、運命って信じるか?」
一瞬怪訝そうな顔をしたが、うつむき加減で小さく首を振った。
「わかりません」
「人生における、様々なことは偶然か必然かどっちだと思う?」
「わかりません」
「じゃあ、今の僕に何かできることがあると思うか。もしあったとして、それをすべきだと思うか?」
「わかりません。でも、とりあえずお見舞いに行ってきます。その時に今日、ハルさんにお目にかかったことを、社長や美穂子さんにお話ししてもいいですか?」
タケは、何かを訴えるような目で僕を見ている。「それを話してどうなる」という言葉がのど元まで出たが、歯を食いしばることで無理に飲み込んだ。
「任せるよ」
そう言って、軽く彼に向かって右手を上げた。
背中に刺さる彼の視線が、いつまでも消えなかった。
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