第10話 四半世紀前の初体験の想い出

文字数 2,481文字

10時を越え、彼女はキッチンに入り片づけを始めている。僕は、背中にちらちらと視線を感じながら、ソファに座って、キャベツのゆかり風味の浅漬けをかじりながら、ちびりちびりと日本酒を飲んでいる。
「何か、もう少しおつまみ作りましょうか」
「もう、お腹ポンポン、美味しかった」
互いに感じていることでも、それを口に出すことが難しいときがある。一回り以上も年上なので上手くリードできればと思いつつ、それほど女性経験が豊富なわけではないし、ムーディに女性を口説いた経験もない。食事中はコロコロと快活に笑っていた彼女の声も、何かを探るように緊張している。
「矢代さん、明日はお休みですか?」
「また熱がでると困るし、土日は仕事を入れんようにしてる」
「何かご予定はありますか?」
「何にもないよ」
水音を背にしてグラスを置くと、彼女の勉強机と本棚に向かう。たくさんの看護の専門書に加え、山本周五郎、池波正太郎、童門冬二などの歴史小説が並ぶ。その中から一冊の文庫本を手に取って、パラパラと捲る。
「上杉鷹山か、ええ話やね」
「そうですね。何度読んでも、同じところで泣いてしまいます」
雨も上がり、キッチンの水の音だけが、静かに聞こえる。
「結衣ちゃん、酔っぱらってもう運転できんし、帰れって言わんといてね」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに下を向きながら、小さな声で「はい」と言って、ガラスのコップを洗いつづけた。
「もう少しお酒が抜ければ、お風呂の用意をしますね」

我が家の狭く古い木の正方形の風呂と同じ役割を持つとは思えない、ゆったりした広さの最新式のユニットバス。足を伸ばして湯船につかっていると、脱衣室から声がかかる。
「スタオルと新しい下着とパジャマを置いておきますね。あと歯ブラシを洗面台の上に出しておきますので、よかったら使ってください」
「おおきに」
「アルコールがたくさん入っているので、気を付けてくださいね」
はじめてのボディシャンプーの香りをまとって浴室から出ると、脱衣室の棚の上には、新しいトランクスと、濃紺とグレーのストライプのパジャマ。ごわごわとしないよう、どちらもわざわざ一度洗濯してある。
「ちょっとヤバいな」
洗面台で歯を磨きながら、冗談めかせて鏡に向かってそうつぶやく。こんな気持ちになるのは、いつ以来だろう。彼女は恋愛に長けているでもなければ、経験豊富なタイプでもない。それでも、僕を喜ばせようと、あれこれ考えて一生懸命に準備してくれたんだろう。そんな彼女に、どんどん惹き込まれていくのがわかる。
「ええお湯やった」
そう、できるだけ明るい声でリビングに戻ると、キッチンから飛び出てきた。
「よかった。ぴったりですね」
「なんや、かえってお金使わせてしもたな」
「とんでもないです。でもご心配なく。高級ブランドでもシルクでもありませんから」
そう笑うと、「じゃあ、私もお風呂に入ってきますね。アップルジュースが冷蔵庫の中に入っていますから、水分補給に飲んでください」と、胸の鼓動を隠すようにして脱衣室に入っていった。

雨はとうに止んでいる。
カーテンを小さく開けると遠くに比叡の灯りが見える。
真新しいパジャマを着てガラスに映り込んでいるのは自分ではないような。深く息をして、ソファの背もたれに体を預けると、なぜか、十八の夏の情景が浮かんでくる。
初めての経験は、高校三年生の時。一つ年上の同じ高校の先輩。
予備校や塾には通っていなかったため、授業が終わると一旦家に帰り、母さんの塩むすびを一つ食べ、近くの公立図書館で午後七時頃まで勉強するのが日課だった。利用者も少なく、夏でも少しひんやりとした、天井の高い古い静かな木造図書館。
その先輩も数少ない図書館勉強組の一人だった。膝丈のブレザースカートに銀縁の眼鏡、ツインテールとは呼べない無造作なおさげ髪。女子高生としてはかなり野暮ったいけれど、クリッとした眼が印象的な、テキパキとした感じの良い人だった。
当時の公立高校は学区制であり、私立の進学校と比較すると偏差値は高くなかったが、校内に張り出される全国模擬試験の成績は常に全国トップクラスだった。
どうして僕の名前を知っていたのか、なぜ話をするようになったのか、その始まりは定かではない。中庭でコーヒーを飲んでいると、「矢代くん、頑張ってる?」と声をかけられ、「まあまあ、そこそこです」と決まった合言葉のように、話しをする程度の関係だった。そのまま、法律でも政治でも経済でもない、文科一類というすかした名前の学部にストレートで合格、「おめでとうございます」という間もなく、卒業していった。

それから半年後、高校三年生になった夏の午後、古い図書館には似つかわしくない、オシャレな女子大生が僕の眼の前に立った。眼鏡はなくなり、カールした流行りのショートヘア、お化粧とヒールのついたサンダル、耳にはピアスが光っていた。
「矢代くん、頑張ってる?」
イントネーションも高低差のある関東風に変わっている。
「どちらの、お姉さまかと思いましたよ」
東京の大学の話を聞かせてもらうという名目で、彼女の家に誘われた。その時にどんな話をしたのか、どのような雰囲気でそうなったのか、詳しいことは覚えていない。そもそも、僕は東京の大学にいくつもりはない。お互いに恋愛感情があったわけではなく、どうして誘われたのかわからない。
一度きりで、それ以来、会うことはない。その古い図書館も取り壊されて今はない。背伸びをした女子大生の顔は忘れてしまったが、ボールペンをクルクルと器用に廻しながら、赤いニキビの額にしわを寄せて積分の難問を解いていた優等生の顔は覚えている。今では、そちらの方が魅力的なのではないかと思う。
童貞卒業の話は、入院中のベッドに横たわった父だけにした。
「昨日、はじめて女の人と寝た。高校の一つ上の先輩」
「そうか、まぁ一応、おめでとう。母さんには言わん方がええぞ」
楽しそうに笑ってそう言ったあとで、急に顔をゆがめ反対側にそむけた。僕はそれに気が付かないふりをして買ってきたポカリスエットを一気に飲んだ。
その一か月後に、父は逝った。
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