第６８話　阿部室長にラウンジに呼びだされる

翌5日、夜8時に時間を作ってもらえないかと、その経営企画室長から携帯に直接連絡がはいる。日繊工の本社ではなく、梅田の高級ホテルの中にあるバーを指定された。それは一般客のいない静かな会員制のバーだった。
約束の時間よりも１５分ばかり前に着いたのだが、相手はもう先にきていた。
阿部室長、一人だった。
「お待たせしました」と笑うと、「いやいや、こちらこそ、こんな場所にお呼び立てを致しまして。矢代さんにやり込められないよう、先に酔っぱらっておこうと思ってたんですが、失敗してしまいました」と立ち上がり、手を握るといたずらが見つかった子供のように笑った。
会社では見せない、無防備に見える邪気のない笑顔。なかなか手ごわそうだ。

「まるよしさんでは、代々、男性の名前には『義』という字がつくそうですね」
「そうです。祖父は義文、兄が義隆、私が義春、兄の長男は義成です。まるよしは母の実家で、私は堂上家の子ではなく、矢代家の人間ですから、おまけですが」
「そんなことはないでしょう。堂上社長からは、『弟は、ああ見えてなかなか手ごわいですから、丸め込まれないようにしてください』とアドバイスをいただいています」
阿部室長は、兄と同じ大学、同じ学部で五つ上の先輩にあたると聞いている。大学の時から面識があったわけではないが、共通の恩師や知人もあり、会合などでは一緒にお酒を飲む間柄だという。兄や先代の祖父の話、社長をつとめる呉服店「まるよし」の話、現在の繊維業界の現状など、いわゆる世間話を３０分くらいはしただろうか。
「正直、ご相談いただいたときは驚きました。いや今でも、毎回驚かされる言って良い」
「無理なお願いにもかかわらず、真摯に対応いただいて、本当に感謝しています。こちらの都合で、事情が二転三転し、申し訳ありません」
「めっそうもない。それが私の仕事ですし、今回いただいたお話しは、私たちにとっても十分にメリットのあることです。ご存じ通り、私たちの会社は高機能繊維の分野では一歩出遅れています。社長を含め他の役員達も良いお話だと、とてもよろこんでいます」
そういうと、ロックグラスを持って、その中の氷を解かすように動かすと、グラスを見つめたまま、少しだけ頬を緩めた。
「ただ、私は少し気に入らないのです。表面的には、こちらの方が主導権を握っているようで、実際は山下繊工さんというか、矢代さんの思い通りに動かされているような気がしていて。ですから、今日は、そのお腹の中にあるものを少しでも見せていただければと思っています」
「そうでしたか、京都人のお腹は黒いですから何も見えんかもしれないですよ」
せっかくなので、少し間をおいてから、そう軽口で答えた。
「基本的にお話しできることはさせていただいているつもりです。ただ、言い訳をさせていただければ、あの全体の会議の場では、ご迷惑がかかるために、オープンにできないこともあるのです。私もお話しさせていただく機会をいただいて感謝しています」
阿部室長はとても頭の良い人だ。自分の立場、日繊工の視点だけで物事を見るのではなく、相手の立場、山下繊工の視点で考えることもできる。会議の中で僕が話をした内容に虚偽やごまかしがあったり、筋が通っていないわけではないが、リスク管理上、彼の神経細胞ブロックに素直におさまらないことがいくつかあるのだろう。
「そう言っていただけるとありがたい」
彼はそう言って、グラスを置いてチェイサーを一気に飲み干した。
「まず、矢代さんは私たちの提案についてどのようにお考えですか？」
「それは、資本提携の前に業務提携を優先するというご提案のことでしょうか？」
「そうです」
「御社のご判断としては当然だと思います。提携条件が決まっていない段階で、評価するのは難しいですが、想定の範囲内です。それよりも、個人的には、短い期間で、丁寧に、また真摯に検討していただいたということに重点を置いています。確かに、新素材開発のニュースだけで一時的に株価は上がりますから、ファンドの動きを一旦止めるということだけであれば、御社との提携は必要ないという見方もあるでしょう。御社の企業評価にとってもメリットがあるはずです。ただ、長期間、その動きを止めるには十分ではありません。また、山下繊工は、営業力や製造能力が乏しいことから、長期的には何等かの対策が必要となります。引き続き、友好な業務提携に向けてご検討いただければと思っています」
阿部室長は、その説明を黙って静かに聞いていた。
「ありがとうございます。それともう一つお聞きしたいことがあります」
そう言うと、小さく一つ咳払いをする。
「失礼ですが、社長の御容態は、本当のところいかがでしょうか？」
それは社長の体を心配したのではない、もっとリアルで厳しい目だった。