第63話 複雑になるシナリオ 大きくなるリスク

文字数 2,410文字

最後のもう一点は、提携交渉や株価への影響、対策について。
これについてはタケが、想定される変化とそのリスクについて、資料を作ってきてくれた。全体像や直面する課題の見えるマップ型、情報の流れとそのリスクの範囲・方向性が見えるプロセス型の図六枚にまとめてある。
内容にもよるが、図にするのは、つらつらと文章で記述するよりも、より難しく、より時間のかかる高度な作業である。全体の流れや仕組み、関係性が完全に理解できていないと図式化できないし、理解したとしても、それを簡潔な図にするには、視覚的・感覚的な別の能力が必要となる。何度も説明を聞かないとわからないようなゴチャゴチャとした自己満足のような図は、意味もセンスもない。この手の作業は、タケのもっとも得意とするところであるが、他に参考にできるような資料はなく、考えながら整理しながら、一からつくらないといけない。
その資料を出してきたとき、さすがタケだと感じ入ったが、僕がみんなの前で感謝したり褒めたりするのは、いまの彼には失礼なような気がして、何も言わなかった。

その内容は大きく三つに分かれる。
一つ目は、これまで想定していた提携交渉と新素材開発発表のシナリオ。
二つ目は、社長が倒れたことに対する、提携交渉と株価への影響と課題。
三つ目は、二つ目の課題を踏まえた上での新しいシナリオ。
「考え始めると際限がなくなるので太い線だけを…」という枕詞で説明を切り出した。
これまで想定していたシナリオはそう難しいものではない。
新しく開発された高機能繊維素材を軸として、日繊工と業務提携を発表し、株価を上げて、買収されにくくするというものだ。業務提携の効果がいつまで持続するのかは定かではなく、ファンド側が買収金額を釣り上げてくる可能性もあるが、一旦は足を止めさせることができ、時間的な余裕は生まれるだろう。日繊工という虎の威を借ることもできる。
しかし、社長が倒れたことで、問題は複雑になる。
山下繊工は、上場企業といっても、高度に組織化された大企業ではなく、山下社長のアイデアや技術で大きくなった個人の能力に依存した中堅企業。実際は、開発においても美穂子や雅弘さんの役割が大きくなっているが、対外的なイメージとしては、アイデアマンとして知られる山下社長個人の占めるウエイトが大きい。このような企業で、山下社長が倒れた、健康に不安があるということになると、その影響は様々なところに及ぶ。

一つは、提携交渉の行方。日繊工との提携交渉の基礎となるのは、山下繊工の開発力・技術力であり、その大半は山下社長の実績に対する評価である。今回は、開発に成功した高機能繊維を軸とした業務提携であり、それ自体が消滅することはないだろうが、それ以降の開発力・技術力に疑問を持たれれば、その提携条件は一時的・限定的なものにとどまる。つまり効果は持続しないということ。
もう一つは、株価への影響。世界的に有名なコンピューター関連企業でも、開発をけん引してきたカリスマ社長が突然倒れれば、株価は一気に低下する。以前の兜町界隈では、株価を誘導するため、カリスマ創業社長が倒れた、亡くなったというデマが、まことしやかに何度も流された。ネット社会においては、その情報のスピードや影響は加速している。
デマであればすぐに収束するし、大企業であれば、個人への依存度はそれほど高くなく、一時的に株価が下がっても、また通常のレベルに落ち着いてくる。しかし、社長個人の手腕や能力に立脚しているというイメージの強い山下繊工のような会社では、それが事実だとわかれば、株価は反発の機会がないまま急落することになる。特に、今回のような場合、相手は間違いなくそこを突いてくる。株価が低くなれば、より安い値段で山下繊工を買収することができるからだ。SNSを使った情報戦になれば、勝てない。
タケの新しいシナリオは、もし入院が漏れた場合でも、元気であることをアピールすることによって、健康不安を払しょくし、最初のシナリオに近い形で収束させようというもの。脳梗塞と言っても、後遺症が残っているわけではないし、急性心筋梗塞も無事に手術が成功し、一、二週間で退院できる見込みだ。日繊工には丁寧に説明必要があるが、それをマーケットに積極的に発表する必要もないし、逆に提携や新素材の発表を大々的に行うことで、影響を小さく抑えることができるのではないかという。
美穂子も洋さんも、お母さんも、頷きながら聞いている。もちろん、このシナリオのままでいけば、社長の交代もなくなるため、先の僕の提案も否決ということになる。
ただ、時間はまだ二日は残されているため、いまここですぐに結論をだすのではなく、今日は影響と課題の整理にとどめ、もう一日、じっくりと考えることにした。

夕方の六時半を越え、日はすっかり落ちている。円ちゃんと礼くんも、オムツを換えたり、ミルクをもらいながら付き合ってくれたが、さすがにぐずり始めている。
「とりあえず、今日は、ここまでということにしよか。新素材のレポートは雅弘さんにお願いするとして、社長の件と今後どうするのかについては、また明日考えよ」
そう言うと、お母さんが、近所のうなぎ屋から、特上のうな重と肝吸いをとってくれた。土用の丑など、夏バテ防止の夏のものだと思われがちだが、天然のうなぎは、冬を越すのに脂肪を蓄え身もやわらかくなるため、この11月頃のものが、最高に美味しい。
「気の毒に、社長は今ごろ、一人で高血圧の患者用の、塩っけのない病院食を食べてんのやろなぁ」とぽつりと言うと、「お酒やめてって何回も言ったのに、こんな大事なときにひっくり返って皆さんにご迷惑かけて、いい薬やわ。今日は大国さんの特上のうな重とってみんなで食べましたって、ふわふわでびっくりするほど美味しかったって、これから行って自慢しよ」とお母さんが言ったので、みんなでどっと笑った。
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