第72話 策に溺れた投資ファンドは徹底 しかし…

文字数 1,921文字

翌週の11月20日、僕と美穂子、洋さんの三人は大阪にいた。日繊工で業務提携に向けて最終的な説明を行うためだ。説明というより最終弁論だと言って良い。
17日の月曜日に「当社の社長の藤森も出席させていただきます」との連絡に合わせて、「当社で、山下繊工さんの株を購入させていただいています」という報告が、阿部室長からあった。
何とか最悪の事態は回避でき、その意味では、ホッとしたと言って良い。
日繊工のスピードは速かった。少しでも高い利益を得るため、下がり気配が続く時には、基本的に買収企業側のファンドは買いには入らない。また彼等にとっても、山下社長の入院は青天の霹靂であり、その実態や影響、ネットが正しいのか会社の発表が正しいのか、その真偽について判断することができなかったのだろう。

買収企業側の対応が遅れたのには、もう一つの理由があった。
情報を漏えいしていたのは、洋さんが昔、勤めていた都市銀行だった。6年前に上場すべきか否かで対立した時に、こんな若造の経営コンサルタントの言うことなど信用できますかと、あからさまに侮蔑の表情を浮かべ鼻で笑っていた当時支店長をしていた中村と言う男だ。順調に出世して本店の融資管理部の部長となっており、次の四月には取締役の末席に座ることが内定しているらしい。
今月初めのタケとの3人の会議で、彼が情報漏えいの犯人である可能性について、洋さんには指摘をしていた。タケも同じことを感じていたらしい。
社長が倒れたということを銀行に伝えたのが7日金曜日の午前中。その午後には、株価が最初の変動を始めている。翌日からも毎日のように社長の体調についての問い合わせが入り、現在の支店長と一緒に二度も会社まで確認に訪れ、断っているにも関わらず、山下社長への面会を執拗に求めたという。
銀行が取引先の業態を気にするのは当然だが、山下繊工の借り入れ額は支店長決済の範囲内で、かつ担保価値が大きく上回っている。万一のことがあっても銀行に損失が及ぶわけではない。洋さんも、当初は信じられないという顔をしていたが、この一週間の言動や雰囲気から情報を漏らしていたのは彼だと確信したという。
ただ、疑っていることを相手に知られてはいけないし、また会話は録音されている可能性があるため、あとで言質を取られるような嘘をついてはいけない。そのため山下繊工がホームページで公表している内容は事実であることを前提に、「誰にも会いたくないと言っており心配だ」「上手く手が動かないようだ」「開発の意欲を失っているように感じる」といった印象操作だけを行った。そのため、会社が公表している以上に、実際の社長の体調は悪いと判断し、売りを優先し、素早く動くことができなかったのだ。
もちろん、彼らは日繊工との提携交渉が進められていることも、強力な新素材が開発されたことも知らない。タケの計算によると、複数の個人・ファンドを通じた山下繊工の株は、最大で合わせて25%近くまで買占められていたと推定されるが、売りを優先したため、現在の所有率は、その1/6程度、4%以下に落ち込んでいるとのことだった。
すでに売買は活発に行われていない。ここまでくれば、彼等がこれ以上、山下繊工の株を保持する理由はなく、すべてを手放すことになるだろう。

相手が確定したとはいえ、本格的な提携交渉にはいるのはここからだ。
しかし、もうこちらは逃げられず、拒否もできない状況にある。一方的とは言えなくとも、ある程度、厳しい提携条件を突きつけられることは覚悟していた。
日繊工という会社は、兄からの紹介があったものの、実質的に交渉をスタートさせたのは、ここ一ヶ月程度で、これまで交渉と呼べるものも3回のみ、個人的な人間関係と呼べるものがあるとすれば、兄の大学の先輩という役員会議の末席に座る阿部室長だけで、それも仕事の話で呼び出され、お酒を少し飲んだだけ。
繊維業界は、大手企業であっても、大正から昭和の初めに勃興した企業が大半で、歴史的にはそれほど古いものではない。その中でどのような経営構造になっていて、今回のことも、日繊工の会社内部でどのように決定され、どのように進められたのか、また、藤森社長がどのような人物なのか、山下繊工についてどのように考えているのかさえ全くわからない。相互に信頼関係をもって丁寧に積み上げてきたものが、創業一族の社長や会長のその日の機嫌で最後にひっくり返されるということも、この世界ではざらにある。
それを調べる時間もないし、今更わかったとしてもどうしようもない。
どのような状況になるのか、どんな話し合いになるのか、まったく想像できず、そのためのシミュレーションや戦略も立てようがない。

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