第61話 いまさら気が付いても仕方ない

文字数 1,524文字

翌朝、病院に泊まったお母さんから電話があり、社長が目を覚まして、僕に会いたいと言っていると伝えてこられた。僕からも社長に話をしたいことがあった。美穂子らとのミーテンィグは午後からにしていたので、11時頃に伺うと返答した。
手術直後の集中治療室ではなく一般個室に移っていた。上半身を30度くらい上げて、二本の点滴と鼻に酸素チューブを入れていたが、顔色はよかった。病室に入ると、恥ずかしそうに、面目なさそうに笑いながら、「おっ」と針が刺さっていない方の左の手を軽く上げた。
昨日は動顛していたお母さんも少し落ち着いたのか、「ハルちゃん、忙しいのに京都から飛んできてくれてありがとうねぇ。心強かったよぉ」と目に涙をためながら、背中をさする手をとって、何度も頭を下げてくれた。そのあと社長に言われているのか、「ちょっとコーヒー買ってくるから」と、病室を後にした。
もしかしたら、父と呼んだかもしれない人。昔は、よく山下繊工の近くにある行きつけの居酒屋で、二人並んで酒を飲んだが二人きりになるは、いつぶりだろう。親しかった人が感情的なトラブルで一旦離れてしまうと、再会しても、その分だけ互いの距離感を確認するまで時間がかかる。
「電話をもらってビックリしましたけど、まぁ大事にならなくて良かったですね」
ベッドの脇にある椅子に座りながら、そう言うと、「心配かけて、すまんかったなぁ」と、いったん言葉を区切った。
「新しいのが完成したら、もう死んでもええかと思ってたけど、胸がキューとして倒れたときに、まだ、ハルちゃんに『ごめん』と『ありがとう』を、ちゃんと言えてなかったことに気づいてなぁ。小生、恥ずかしながら戻ってめいりましたってとこや」
そう言うと、点滴をしたまま、不器用にベッドから身体を起こして、居住いを正す。
「ハルちゃん、今更やけども、色々とすまんかった。ありがとうこの通り」
頭を下げると、涙が、ポロリと布団の上にこぼれた。

その時にやっと気が付いた。いや、心の中ではわかっていたのかもしれない。社長は上場などどうでもよく、ただ美穂子と結婚をして、僕に会社に残って欲しかったのだ。この人は僕のコンサルティング能力を求めたわけではなく、息子としてそばにいてほしかっただけなのだ。上場か否か、リスクの大小という表面的な問題だけに目を奪われて、僕は最後までその想いを理解しようとしなかった。今更はお互い様なのだ。でも過去を変えることはできないし、本当に今さら言葉にしても仕方がない。
ただ、背中には、重いものがズシリとのった。
「おやっさん、もう頭上げてください。まぁ元気になられて、とにかく良かったです。せっかく三途の川の近くまで行ったんですし、何か次回作に向けていいアイデアは浮かびましたか?」というと、手で涙をふいてから、ゆっくりと顔を上げた。
もともとは、明るく話し好きな人だ。新しく開発した高機能繊維素材のデータが良かったことに水を向けると、昔のように楽しそうに話をしだした。美穂子の夫の雅弘さんは、繊維に添加する機能剤に関する研究者で、今回の成功は彼の能力によるところが大きく、なかなかの優れものだという。雅弘さんとも何度か話をしたことがあるが、誠実でほんわか穏やかなひとだ。ただ、洋さん同様に、二人で一緒に居酒屋に行ってワイワイと男同士のバカ話をするというタイプではないらしく、それが不満らしい。
「僕も、月に何度かは東京に来ますから、元気になったら、お医者さんとお母さんに叱られない程度に、またお付き合いしますよ」と言うと、また顔をゆがめて、涙をぬぐった。
「その代りと言っては何ですが、僕もひとつお願いがあるんですよ」というと、嬉しそうな顔をして身を乗り出した。
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