第70話 「業務提携」と「資本提携」の順序

文字数 1,974文字

事ここに至ってポイントとなるのは、「業務提携」と「資本提携」の順序である。こちらからの最初の提案は、その二つを同時に行うということ。それぞれの条件や内容を一体的に検討することができるため、山下繊工にとっては最も安全で有益な方法だ。
これに対して、日繊工の返してきたボールは、「業務提携」を優先し、資金が必要となる資本提携は後回しにするというもの。
そのメリットは、日繊工だけのものではない。ファンドの足を一時的に止めるというだけでなく、その提携内容によっては、その効果を一定程度、持続させることもできる。業務提携条件の検討において、山下繊工が弱い立場にあることは間違いないが、盲目的に判を押す必要はなく、一方的なものであれば断ることもできる。

しかし、いま、またその順序が変わらざるを得ない。
社長が倒れたという情報が表面化すると、株価が大きく下がる。業務提携、資本提携のどちらの条件も、丁寧に整える時間がないまま、誰が先に山下繊工の株を買うのかという差し迫った状況に追い込まれる。ファンドが先に買い占めれば日繊工との提携交渉はすべてなくなる。それが困るのならば、日繊工さんがその前に山下繊工の株を買って、ホワイトナイト、安定株主になってくださいということだ。
スケジュールの問題もある。今は11月の初めなので、従来のシナリオであれば、年末に発表を行うとしても、あと一ヶ月程度は、じっくりと条件検討を行うことができたが、事情が変わり、すでにその時間は残されていない。日繊工から見れば、十分な協議の時間がないまま、株を買わなければならないことになる。
しかし、本当のリスクは山下繊工にある。
当初の資本提携は、新素材の提携条件と一体的に、日繊工の経営支配権が過度に強くならないことを前提として、その方法や条件、割合を協議しようというものだ。しかし、こうなるとその取得割合も条件もコントロールできず、株式市場での売買に委ねられる。その中で一気に買い込まれると、日繊工に完全に支配され子会社となるリスクもある。
また株価が一時的に大きく下がることで、日繊工はその株式を実際の価値よりも安い金額で買うことができるが、逆に、山下繊工にとっては株を押えられることで発言権が弱くなる。結果、これからの業務提携の条件をほぼ丸飲みしなければならなくなる。もうそれは提携ではなく、首を差し出しているのと変わらない。
どっちに転んでも、これまで通り、独立した経営権を維持することはむずかしい。
取り込まれるのが外資か日繊工かの違いでしかないのだ。

次に話を切り出す順番は、僕ではない。緊迫した時間がゆっくりと流れる。
「『悪路であっても自分で運転する』ですか…。同じ立場になった時に、私にその勇気と覚悟がありますかね」
大きく息を吐き、そう独り言をつぶやくように言った後、「矢代さんは、山下繊工さんとどういったご関係なんですか? どうしてそこまで頑張ることができるんですか?」と、これまでとはトーンの違う声で聞かれた。
「仕事だからですよ」と笑ったあとで、仕方ないので告白することにした。
「どこかで耳にされると格好悪いので申し上げると、山下繊工さんとはもう10年以上の御付き合いで、専務の美穂子さんとは恋人同士だったこともあるんです。色々あって、それ以上は上手くいかなかったんですが、いまでも私の大切な人であることは変りありません。東京の家族、東京のお父さん、お母さんみたいなものですかね」
そう言うと、鼻の奥がツーンとなって、最後のセンテンスが詰まった。
室長は僕の顔をずっと見ていた。
「今日、お話しした中で、これだけは内密にしていただけるとありがたいですが…」
そう言って笑うと、優しい笑顔で頷いた。
「最後に、私の方から一つだけ」と、心を落ち着けて話を続けた。
「今回の話は、一方的にお願いしているわけではありません。私は双方、プラスになってほしいと心から思っていますし、そうできると信じています。ただ、ここで私が何かをお約束できるわけではありませんし、時間もほとんどありません。ですから、御社は御社の立場で、阿部室長は阿部室長のお立場で動いていただければ結構です。結果的に山下繊工の独立した経営権が十分に守れなくても、ビジネス上のことで仕方がありません」
そう言うと、胸ポケットから折りたたまれた一枚の紙を出した。
僕と洋さんとタケの三人で協議したことを、タケがまとめてくれたものだ。これからの情報の流れとポイント、資本提携、業務提携のポイント、希望する条件の骨子の他、これからの僕たちの動き、想定されるシナリオが書かれている。
彼は長い間、それをじっと睨むように見入っていたが、「わかりました。今日はありがとうございました」と紙を僕に返すと立ち上がり、もう一度、固く手を握った。
もう、作り笑顔はなかった。

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