第67話 どちらにとっても、残された時間は少ない

文字数 1,794文字

「失礼ですが、現在の山下社長の御容態はいかがなんでしょうか」
そう聞いてくれたのは、社長と面識があると言った開発担当常務だ。こういう時に、本人を見知っているか、知らないかで、思考の回路は変わってくる。その声で難しい顔をしていた他の役員達も、そうそうと、姿勢を戻してこちらに顔を向ける。
「ありがとうございます。おかげさまで、手術は無事成功して元気にしております。最近は足の動脈からカテーテルを挿入するという簡単な方法があるそうで、後遺症もなく、10日ほどで退院できるだろうということでした」
そう言うと、他の役員も顔を見合わせて、「それは良かった」と安堵の声を上げる。
「ご心配いただき、ありがとうございます」と、それぞれの方向に丁寧に頭を下げる。
「ただ、会社としては、問題はそう単純ではないんです」
そう言うと、この三日間でまとめた課題について、日繊工の視点から説明を始めた。
「一つは、御社の山下繊工に対する評価です。ご存じの通り、山下繊工は、山下社長のアイデアや技術力によって成り立っている会社です。今回の心筋梗塞は、敵対的買収を仕掛けられた心労と、開発を急ぐあまりに無理を重ねたことが原因ですが、年相応に血圧も高く、半年ほど前にも検査で軽い脳梗塞が発見されたことがあります。今回の新素材は、社長だけでなく、専務である娘の美穂子さんと、その夫の雅弘さんとの三本の矢で開発できたもので、以前ほど社長への依存度が高いわけではありません。ただ、開発力や技術力を評価いただいて、業務提携を行うにおいては、社長の健康状態は、御社からの評価を左右する重要な事項であることは間違いありません」
これは、「社長が倒れた」と告げたときに、それぞれの役員が頭の中で考え始めたことを少し掘り下げて整理・確認しているにすぎない。いま言わなくても、僕が帰ったあとに役員間で提携交渉の条件検討、課題検討の中で話し合う中心議題となるものだ。
日繊工の立場で話をしたのは、そのリスクや課題について誠意をもってこちらから伝えたということではない。他人から言われたことと、自分で考えたこととでは、同じ内容であっても、議論や判断においてのウエイトが違ってくるからだ。他人から与えられたものは単なる情報だが、自分で気が付いたこと、自分で考えついたことはオピニオンとして、過大に評価し、それに固執する。そのため、考えれば気が付くようなデメリットやリスクなどのマイナスの情報は、こちらが与えたという形にする方が良い。積極的にリスクを提示したというイメージを持たせることができ、合わせて、質問を引き出し、その大きさを丁寧に説明して軽減するという効果もある。
「それは、大事には至らなかったけれど、山下社長の健康状態は芳しくないと判断して良いということでしょうか」と、黙って聞いていた専務から質問がでる。
「いいえ、私も昨日まで東京にいたのですが、本人はとても元気です。ご家族と一緒に医師からの説明を聞きましたが、冠動脈の閉塞は他にはないようです。あとは飲み薬だけでコントロールができるそうですから、これまで通りに生活や仕事ができるだろうとのことでした」そう柔らかく首を振ってこたえると、ホッとしたような空気が流れる。
「他のところからお聞きになるということは、信義上好ましくありませんので、お話しいたしましたが、最終的にご判断いただくのは御社です。今現在は、まだ病院に入院しているというとは事実ですし」
そう言うと、ゆっくりと間合いをとる。
ここからが、僕が伝えなければならない、今日の本題だ。
「ただ、本日、急いで時間を設定いただいたのには、もう一つの理由があります。それは山下社長が倒れて入院したという情報をコントロールできないということです」
さすがに取締役であり、全員がその意味、重大性を理解したことが表情からわかる。
「外資系の投資ファンドが敵対的買収で関わっている案件です。今日、明日ということはないでしょうが、山下社長が倒れて入院したというニュースは、恐らく来週中には表に出るでしょう。そうなると山下繊工の株価は急落します」
再び、それぞれが顔を見合わせ、再び、ざわざわとした沈黙が支配する。
そう長い時間をおかずに、僕を見据えるように言葉を発したのは、経営企画室長だった。
「山下さんにとっても、私たちにとっても残された時間は少ないということですね」
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