第41話 八坂「ふじたか」の謎

文字数 2,455文字

結衣の希望で、翌日の「ふじたか」にも浴衣を着て行くことになった。ドレスコードのあるような料理店やフォーマルな食事会には好ましくないが、知り合いの店にいくのなら喜んでもらえるだろう。僕は、初めて伺うのだし、夏用のジャケットにしようかと思ったが、一緒に浴衣を着ろとうるさく言うので、仕方なく合わせることにする。
その店は東山の矢代の家からは歩いて10分程度の距離にある。玄関の前で立ち止まって見上げるが、覚えているのは赤本の並んだあか抜けない部屋だけで、それ以外がどんなだったかは記憶にない。結衣は、お料理を習いに何度も来ているので、「こんにちは」と気楽に入っていく。

中にはもう一組、三谷夫婦がいた。
「お待ちしておりました。細川です。本日はお越しいただきありがとうございます」
「初めまして、妻の美香と申します。結衣ちゃんがお世話になっております」
「矢代義春です。先日は、美味しい鱧料理をありがとうございました」
「本当は、今日はお休みだったんですが、私たちのために開けてくださったんですよ」と結衣が代弁する。反対に「焼肉みたに」は臨時休業らしい。
「それは、開けてもうたり、閉めてもうたり、申し訳ないことです」
「結衣ちゃんから連絡をもらって、俺らもこんなことがないと、わさわざ夜に出てこられないんで、今日は御相伴させていただきます。三週間前から休むつもりで店に大きく張り出してました。予約ぜんぶ断りました。スンマセン」
軽く腰を上げて、頭を下げて笑った。
お料理は、本来の京懐石の流れを基礎として、独自のアレンジを加えた繊細かつ大胆なもの。さっぱりした川魚の鮎と、試作中の数種類の牛肉のたたきも含め、料理がバランスよく配置されている。結衣が自分の役割がわかっているように、出てくる料理に対して、「わぁ、このたれ美味しい」「これは柚子の香りがしますねぇ」と聞いてくれるので、作る方も食べる方も、気を遣うことなく、ワイワイと料理談義に花が咲く。

「ところで、この『ふじたか』というお店の名前は、誰が考えはったんですか?」
「矢代さんもご存じの一番上の姉の智子です」
「あの細川家と、何かご関係が?」
「お気づきになりましたか。姉は父や祖父にも話をきいたようですが、全く関係ないようです。父方の実家は名古屋ですから」
「なるほど、そうすると、なかなかハードルの高い厳しい名前やね」
「気負っているようで恥ずかしいんですが、我が家では、姉の言うことは絶対で」
そう困ったように眉をひそめた。
三谷夫婦は、その話を何か禅問答を聞いているような顔で見ている。
「すいません、頭悪くて申し訳ないんですが、どういうことでしょうか。一富士二鷹かなぁ言うて、サチと話をしてたんですが、他に何かあるんですか」
日本らしい縁起のいい名前でもあるが、それだけの意味ではない。壁には上品でシンプルな茄子の小さな水彩画がかかっていることから、その意味もあるのかもしれないし、本当の意味を気づかれないようにする照れ隠しの工夫ともいえる。
店の名前は、戦国時代の武将、細川藤孝からきている。戦国大名としてよりも、歌人としての細川幽斎の名前の方が有名だろう。剣術は塚原ト伝に学び武芸百般に通じると共に、和歌や茶道、蹴鞠、料理などにも才を発揮した、当代随一の教養人である。
乱世の表舞台に登場することは少ないが、歴史に果たした役割は大きい。
明智光秀が、本能寺で信長を討った時、嫡男の義父でもあり、親友でもあった光秀からの再三の助勢を断り、これが原因で三日天下に終わっている。細川が加勢すれば、洞ヶ峠と揶揄された日和見の筒井順慶も光秀を裏切らなかっただろうし、そうなれば天王山の趨勢はわからず、歴史が大きく変わっていた可能性もある。

もう一つ有名なのが、「古今伝授」。
勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えてきたもので、一子相伝とされていたが三条西家の事情で、一時的に細川藤孝がその秘伝を受け継いでいた。
しかし、藤孝は関ケ原の戦いで東軍の家康方に味方したため、舞鶴の田辺城において石田勢に取り囲まれてしまう。この時に大阪の細川屋敷にいて、石田方の人質になるのことを拒み、キリシタンとして壮絶な最期を遂げたのが、光秀の娘で長男(忠興)の妻となっていたガラシャ。藤孝は二ヶ月以上籠城したが、そのまま戦死してしまうと秘伝も絶えてしまう。それを恐れた後陽成天皇が、勅使を遣わして講和を結ばせ、その身柄を保護した。和歌の秘伝が、戦を止めるほどの大事だったということだけでなく、藤孝は武将であるだけでなく、天皇を動かすほどの教養人・文化人だったことがわかる。
「じゃあ、こっちの鳥はカッコウ、呼子鳥かな」
「はい。ご明察です」
「さすが智子先輩、三谷の言うたように一富士二鷹に、細川を刷り込ませるとは、わが母校の誇る最強のインテリジェンスやな」
「今日、姉に矢代さんがお越しになるといったら懐かしがっていました。『矢代くん、頑張ってる?』って、伝えてほしいと言われています」
「懐かしいね。『まあまあ、そこそこです』と言っていたと伝えてください」
「矢代さんに、我が家の秘伝『ふじたかの謎』を一発で解かれたと言っておきます」
そう笑って、お姉さんによく似た、大きな目を細めた。
眉間にしわを寄せ、ボールペンをクルクルとまわしながら、名前を考えている姿が目に浮かぶ。僕にはいつも上から目線の智子女史に一矢報いたようで嬉しかった。
「奥の深い話ですね。俺もハルさんや細川に負けんように頑張らなあかんなぁ、何やごっつい力が湧いてきましたわ」
少し酔ったのか、いつも口数の少ない三谷くんが赤い顔をしている。「私も看護師、頑張りますよぉ」と、結衣が追随し二人でハイタッチしている。三谷くんにも結衣ちゃんと呼ばれ、細川夫婦にも妹のように可愛がってもらっていることから、いつもよりもはしゃいでいるのがわかる。
「僕も含めてまだまだ若造やしな。まあ、精々気負って、みんなで頑張ろや」
そういうと、もう一度、乾杯をした。
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