第75話 肩車してくれたおじさんとソフトクリームのお兄さん

文字数 1,903文字

小さなざわめきとともに、全員が一斉に僕を見る。
「ハルちゃん」が自分のことだということはわかるが、こちらは誰だかさっぱりわからない。お目にかかったことがあるのなら、失礼だと思うけれど、どんな顔をすればいいのかもわからない。楕円になった大きな会議テーブルの入り口に一番近い場所まで進むと、その驚愕の雰囲気を楽しむかのように笑いながら、両手を前に出して、それを上下させながら、全員に着席するように促す。
「驚くんも記憶にないんも無理はない。ワシがハルちゃんに会うたのは、あんたが3つか4つの時で、もう40年も前のことやさかいなぁ。わしも驚いたでぇ。山下さんとの提携の話があるのは聞いとったけんど、昨日の夜になって、悟志が、その仲介の労をとってくれたんは、「まるよし」の当代で、明日、弟のハルちゃんが説明に来られるいうやないか」
他の役員の視線を見ていると、悟志さんというのは、阿部室長のことで、苗字は藤森ではないが、何か特別な関係にあることがわかる。
「そのお茶をくれんか」と言って、末席にいた阿部室長のお茶を取り、口を潤し一息つくと、少し落ち着いて話を続ける。
「ワシと、まるよしの先代の文ちゃん(祖父の義文のこと)とは幼馴染でなぁ。子供の頃から一緒に悪さして、会社のことではぎょうさん相談にのってもうて、うちをここまで大きいしてもうた恩人の一人や。五年前ほどやったか、久しぶりに一緒に飲もういうて、祇園さんに連れてってもうたときに、もう秋口やいうのに、『ハルがきたぁ、ハルがきたぁ』言うてなぁ。文ちゃんもとうとう呆けがきたかいいうて笑うとったら、『京都にハルが帰ってきた。タカとハルが相そろうて、これでまるよしもあと100年、200年は安泰や。お前にもそのうち会わしたろ』言うてエライ喜んでなぁ。でも、その約束を果たさんままに、先にいってまいよったんや」
話を聞きながら、その人のことをぼんやりと思い出していた。
祖母が亡くなった時、いつまでもすがって泣き止まない僕を、馬になったり、肩車をして、あやして慰めてくれた人だ。僕の中にある最も古い映像の一つだと言ってよい。
「えらい社長さんにそんなことさせてしもて。すんまへん」
そう言った母の声が聞こえる。そうすると、その後で僕と兄に近くの駄菓子屋でソフトクリームを買ってくれた大学生のお兄さんが、いまの藤森社長ということになるだろうか。
「向こうの部屋で一緒にお話し聞かしてもうたけど、今回の提携は、高機能繊維の分野で一歩遅れたうちにとってもありがたい、ホンマにエエお話しや。悟志によると、ハルちゃんにとって、山下繊工さんは、東京の家族のような大切な会社や言わはったらしい。うちも皆さんに、大阪の家族やと思てもらえるように頑張らないかん。図体がちょっとばかし大きいだけでは、これからは何にもならんでぇ」
と、眼光鋭く居並ぶ役員に薫陶した。
「細かいことにゴチャゴチャと口だす気はないけんど、山下さんの株もだいぶん安うに買わしてもうたそうやし、うちの社長さんも、恋い焦がれた憧れの君の息子さんに、そうそう無体なことはよう言わんやろ」
そう言ってカッカッカと笑うと、話し疲れたのか一つ大きく息をついた。
そして、机に手をついて、車いすから立ち上がった。
「山下繊工はん、提携先として当社を選んでいただき、本当にありがとうございました。今後ともどうぞ、どうぞ末永うよろしゅうに、お願い致します」
そう言って、居並ぶ役員をそろえて、深々と頭を下げた。
「藤森相談役、ご挨拶が遅れ失礼いたしました。ご無沙汰しております、矢代義春です。亡き祖父が大変お世話になりました。祖母の葬儀の時に肩車していただいたことを思い出しました。あの時、大学生だったお兄さんに、ソフトクリームを買っていただいたお礼を含めて、また、あらためてお伺いさせていただきます」
そう言って、車椅子まで近寄って、頭を下げた。
相談役は、僕の顔をじっと見て、それからポンポンと二回僕の右腕を軽くたたき、
「おおきに、ハルちゃん、まってるでぇ。わしもそろそろ、文ちゃんに呼ばれるやろさかい、あんまり遅ならんと、早う来てや。うちの会社にもハルが来たいうて、文ちゃんに言わんとあかんしなぁ」
そう笑うと、「ほな行こか」と秘書を促し、後ろ向きに手を振りながら出て行った。
相談役が去ってドアが閉まった後、その緊張を振り払うかのように、「なにがそろそろや。あの調子ではあと10年は大丈夫やな。難儀なこっちゃ。それに、あない大上段から言われたら、交渉も何もあらへんがな。なぁ、ハルちゃん」と、これまでとは打って変わった関西弁の軽口で、藤森社長が笑いを誘った。

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