第81話 ペナルティではなくビジネスの話を

文字数 2,350文字

目の前で起きていることが信じられない様子で、中村部長を凝視したまま、その震えが支店長にも伝播していく。
「しっ、しかし…」と中村部長が力なく反論しようとした時、それを破るかのように、洋さんが猛然とたちあがり、テーブルを乗り越えると、「中村、貴様ぁ」と言って胸倉をつかんで殴りかかった。
元銀行員を地で行くようなスマートでクレバーな彼がそのような行動にでるとは思っていなかった。この会議の前に「一発くらいどついたってもええで」と冗談めかして言うと、「一応大人ですからそんなことしませんよ」と、少し緊張しながらも笑っていた。
美穂子が社長になっても、会社経営のことは全くわからないので、なんとかそのまま支えてやってほしいと、タケと三人で酒を飲みながら伝えた時、彼は自分の不明を、涙を流しながら詫びた。融資管理部長の中村氏には、銀行に入った時から目をかけてもらっていたこと、これまでも様々な相談に乗ってもらっていたことなどを告白した。元上司の中村部長のことを信頼していたからこそ、それに対する裏切りが許せず、これまでのストレスや抑圧が、怒りとなって一気に噴出したのだろう。
僕には、人を馬鹿にしたような薄ら笑いの顔しか記憶になく、良い印象も全くないので、本当に一発、二発くらいは良いか、一緒に蹴り入れてやろうかと思って止めないでいた。
しかし、その時、「洋くん、辞めなさい」と、ドアが開いて後ろから声がかかった。
「そんなことしても何にもならん」と、部屋に入ってきたのはおやっさんだった。そのまま、洋さんの肩を二回たたいて、中村部長の前に立った。
「中村くん、どうしてこんなことになったのかな。30年ほど前に、きみが銀行に入って新人の時に初めて担当してくれたのが、うちの会社だった。あの頃は私も若かった。家に寄ってもらって家族と食事をしたこともあったし、居酒屋で二人して飲んだこともあったな。君がうちを潰そうとしたとは思いたくはないけれど、ただただ残念だ」
そう優しく語りかけると、中村は大声を出して膝から崩れた。

銀行業務の基礎は高い信用だ。もし大手都市銀行内部の、それもその中枢にいる本部の人間が、金をもらって外部に経営情報を漏らしていたということが明るみにでれば、とんでもないスキャンダルになる。金融庁からは厳しい行政処分が下り、頭取以下、何人もの役員の首が飛ぶ。それ以上に、信用の失墜によって受ける影響ははかりしれない。

その日の夕刻、銀行の専務と副頭取が飛んできた。その専務は、以前、常務として山下繊工の上場の時に「当行のすべてをかけてバックアップします」と登場した役員だったが、声にその時ほどの力はなかった。同じ派閥の部下がこれほど大きな不祥事を起こせば、その上司が受けるダメージは大きい。それは、昨日大きく肩を落として帰っていった、今の支店長も同じだ。もう銀行にはいられないだろう。
説明によると、中村部長は、最近ではなく五年以上前から今回の外資系企業やファンドと影でつながっていたらしい。あの時に上場を急がせたのは、初めからこの絵をかいていたのではないか、会社を売り飛ばすためだったのではないかと言われても仕方がない。中村は、親族の名義で自分でも山下繊工の株の売買を行っていたという。何か弱みを握られていたのかもしれないが、自己の利益のために株を売買していたとなると、あきらかにインサイダーとなるため罪は重い。
「当行の全てをかけてバックアップすると大見得切られた結果がこれですか」
そんな嫌味の一つくらい言ってやろうかと思っていたが、どぶに落ちた犬に石をぶつけるような趣味はないので、やめておいた。
コンプライアンスや再発防止策なども説明されたが、正直言って興味がない。銀行のシステム上の課題ではなく個人犯罪なので、防止することは不可能だし、それは本人たちもわかっているだろう。彼らは何とか表沙汰にするのはやめてほしいと言いに来ただけだ。

「中村部長は今後、どうなるんでしょうか」
黙って聞いていた僕がそう口を開くと、姿勢を正してこちらを向く。
「昨日付で部長職を解かれ、銀行の中では人事部付ということになっています。その処分は今後、行内で検討することになりますが、相当厳しいものになろうかと思います」
次は、洋さんの番だ。
「昨日、山下社長から、いまは技術長ですが、中村さんにも昔お世話になったので、あまり厳しいことにならないようにしてほしいと言われています。また、今の支店長さんやその他の方にまで、影響がでないようにということも」
同意を得るように、言葉を区切って僕のほうを見たので、「そんな甘いこといってるから、おやっさんは社長に向かないんですけどね」と悪役らしく憎まれ口をたたく。
「私も、技術長と同じ意見です。ご存じの通り、私も御行の出身ですし、中村さんには、たくさん教えていただきました。今の支店長にもよくしていただいていますし、情報をお伝えしなかったのは、銀行そのものを信頼していないわけではありません。また、私たちも、これ以上、事を荒立てる気はありませんし、金銭的な損害もありませんから、損害賠償請求などを行う予定もありません」
「では、証取委や金融庁への報告は?」と言って僕の顔を見た。
「副社長がしないと言っているのに、僕がやれというのも変な話ですしね」
そう言って肩をすくめると、二人は心からホッとした顔をして、立ち上がり深々と頭を下げた。役職や社会的地位に関係なく、年長者に深々と頭を下げられるのは得意ではない。なぜか鼻の周りがムズムズとして申し訳なくなってくる。僕も社長には向かない。
「ですから、ここからはペナルティではなく、ビジネスの話をさせてください」と、物わかりの良い役の洋さんが前向きに雰囲気を変えた。
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