第60話 危機を脱す でも会社は再び混迷の中

文字数 2,241文字

病院に着いたのは夕方の六時を超えていた。まだ手術の最中で、病院には、お母さんと長女の由美子さん、美穂子と洋さんと駆けつけたタケの五人。小さい二人の子供は、家で美穂子の夫の雅弘さんが見てくれているらしい。
待合室で、少し落ち着いた美穂子に倒れたときの様子を聞く。
複数の専門機関に依頼していた新しい高機能繊維の機能の最終チェックの結果が、今日のお昼に送られてきて、それを雅弘さんと三人、社長室で確認していたという。想定よりも更に良い結果だったため、喜んでいる最中に急に胸を押さえて倒れたらしい。
「社長は、いまいくつだっけ」
「私が二九歳の時の子供なので、今年六五になると思う」
お酒が好きで、昔は一緒によく飲んだが、当時から血圧が高く、控えるようにとお母さんによく叱られていた。明るいけれど口下手な社長。男同士だから僕が五年ぶりに現れても、「ハルくんあの時は…」などといった話はしていない。ただ美穂子同様に、あの時のさまざまな思いが、無理の上にも無理を重ねさせていたことは間違いない。自分の身体に鞭打つことだけが、僕が京都からもう一度出てきたことへの気持ちを表す、唯一の方法だったのだろう。
何としても、元気になってもらわないと困る。
会社のためにも、美穂子のためにも、そして僕のためにも。
目のまえで重ねた指の向こうで、手術室のランプが消えた。

お母さんだけを病院に残して、山下繊工へ戻ってきたのは夜の10時になっていた。
急性心筋梗塞は、初期対応が生死を分けると言われている。美穂子らのいる前で発作が起きたこと、会社の近くにかかっていた大学病院があり、すぐに搬送できたこと、その病院の心臓外科で閉塞した冠動脈にステントを入れるカテーテル手術を行う体制が整っていたことなど、いくつもの幸運が重なった。
無事、手術は成功し、山下社長は命を取り留めた。
手術後に行われた医師からの説明では、いまは麻酔が効いているので眠っているが、明日の朝には目を覚ますだろうということ。合併症の有無や血管に入れたステントの具合を確認するのに、しばらくは入院することになるということだった。
主人のいない社長室には、僕とタケ、美穂子と洋さんの四人。
クッションの悪い、古い茶色のソファに腰を下ろすと、どっと疲れがでてきた。結衣とお昼にキーマカレーを食べたきり。それももう随分前のことのように感じるが、後は缶コーヒーを飲んだだけで何も口にしていない。それでもまったく空腹感はない。他の三人も同じようなものだろう。
しかし、ホッとしている余裕はない。会社として見た場合、問題はさらに複雑になり、対策をまた一から再構築しなければならない。
開発された新高機能素材を軸として、日繊工との提携交渉が進められていることは美穂子も聞いているだろうが、まだ存亡の危機を脱したわけではない。行く手に微かな光と、そこに向かう細い道筋が見えたにすぎない。今回、社長が倒れたことで、その交渉の行方は一層不透明なものとなり、全体のシナリオを大きく書き直す必要がでてくる。交渉内容だけでなく、社長が倒れたことがわかれば、株価にも大きく影響してくる。
考えるべきこと、想定すべき課題はたくさんあるが、安堵感とともに疲労感が漂っており、何から考えればよいか、どうすればいいかわからないという顔がそろっている。
「一時はどうなることかと思たけど、まぁ、とりあえずよかった。でも、これで更にいろいろと大変なことになってたきなぁ」と雰囲気を和らげるように、ゆっくりと言葉をつないで、手でごりごりマッサージしながら強張った顔の筋肉を緩めた。
「日繊工さんには、社長が倒れたことを、話にいかんとあかんし、どうしたら、どう動いてどうなるかと言うことも、いちから考え直さななあかんなぁ。でも、明日から土・日・祝(文化の日)と三日あるし、その間にゆっくり考えよ。今日はとりえず寝やしてもらおか。もう、昔みたいに若うないし、ホッとしたらどっと疲れた」
大きく背伸びをすると、今日初めて美穂子が少しだけ笑顔を見せた。

ホテルに入ったときにはすでに日付は変わっていたが、心配しているだろう結衣に電話をする。
「それは良かったです。ハルさんのあんなに怖い顔、初めてみましたよ」
ステント治療は身体に大きくメスを入れるバイパス手術とは違い、身体への負担も少ないため、早ければ一週間から二週間程度で退院できるのではないかと言う。
「それから、ごめんなさい。東京の病院のこと、ハルさんにもご相談すべきでした」
「ゆかり先輩は何て?」
「お姉さんの美香さんからも、色々とお聞きになっているみたいで、まだ来年の話だし、ゆっくり考えて、自分の思い通りにしなさいって。あと、この間のレポートをお送りしたら、びっくりされてて、勉強になったと褒めていただきましたよ」
「そりゃよかった。しばらくはバタバタするけど、来年のことは、僕も色々と話をすることがあるし、またゆっくり相談しよ。どっちに転んでも悪いようにはならん。一人で考えすぎて思いつめるな」
というと、「はい」と元気に返事をした。
「そうそう、真純ちゃんから、クリスマスに新しいスマホを買ってくれるってお兄さんが仰ったってメールが来ましたよ。一緒に来年中学生になるナリくんも携帯電話買ってもらう予定らしいんですけど、最初から同じスマホになるみたいで、不公平やと怒ってました。私もこの機会に新しいの買おうかなぁ。ハルさんもお揃いにしませんかぁ」と、はしゃいだ声を聴かせてくれた。

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