第50話 渾身の医療リスクマネジメントレポート完成

文字数 1,963文字

9月末までの宿題だった、結衣のリスクマネジメントに関するレポートは、何とかギリギリ期限に間に合った。30日の夕方、病院長と総師長への提出用を合わせて三部、無事に提出できましたと、Vサインの写真つきでメールが送られてきた。1月の退院以来、久しぶりに見た懐かしい結衣の紺色の看護師姿にあの日の記憶が甦る。

以前、大手医療機関からの依頼で、医療看護リスクマネジメントについて検討したことがある。経営コンサルタントの立場から言えば、それは医療過誤や医療事故を防ごうという医療現場の対策を指す言葉ではない。組織防衛の観点から、医療サービスを提供する上で発生しうる様々なリスクを把握し、その発生や拡大をどのように管理していくのかという経営管理手法である。また、その範囲は、医療事故だけでなく、モンスターペイシェント、感染症や食中毒、火災や自然災害、労務災害など内容は多岐にわたる。ヒヤリハット、呼名確認などは、そのうちの一つのリスクの発生を予防するための手順でしかない。
医師や看護師には、安全で質の高い医療・看護を提供するということだけではなく、自分の属しているチームや自分自身の身を守るものだという理解を徹底させることが必要となる。それがないと、『いそがしいのに…』『やらされている…』『めんどくさい…』という意識が強くなり、各対策や手続きが表面的、事務的でおざなりなものになっていく。
レポートは手伝うと契約?したものの、『代わりに作ってあげる』と言った訳ではないし、そのつもりもないだろう。リスクマネジメントは、看護師を続けていく上で、今後ますます重要になるキーワードの一つであり、結衣にとっても、集中して勉強する良い機会である。

まずは、医療機関におけるリスクマネジメントとは何かを理解するために、想定すべきリスクの範囲や種類、医療事故や医療過誤の定義、予見可能性と結果回避義務、刑事・民事・行政の法的責任の違い、裁判の判例など、その全体像と責任の重さ、瑕疵の考え方についてイメージできるよう整理することを求めた。
そこから、現状分析として、研修が表面的な手順や手続き中心となっていること、その一部は形骸化していること、仕事が増えるという間違った認識を持つ人が多いこと、防災や事故発生時の訓練が形式的で、ダラダラと真剣におこなわれていないなどの事例を挙げ、その責任は個々の職員にあるのではなく、組織全体としての認識の甘さ、マネジメントにあるとした。
更に、必要な対策として、各所属長の役割の明確化や、外来や検査、各病棟の特性に合わせたより深いリスク分析、情報共有・情報管理の重要性、積極的にリスクの種を発見するための方策、トラブル発生時の迅速なバックアップ体制、継続的な研修のあり方などについて、先進的な取り組みを行っている病院の事例などを踏まえ、すぐにでも取り組めることと、中長期的に取り組むべき課題に分類して整理した。
そして最後に、事故発生の予防対策だけでなく、裁判などリスクを拡大させないという視点も不可欠であり、そのためには患者・家族との普段からのコミュニケーションや、丁寧な説明を基礎とした信頼関係の構築が何よりも重要であると、結衣がこの病院で学んだことを、総評として記した。

「責任って簡単に言うけど、法的責任と道義的責任の違いはわかってる?」
「事故を減らす努力は必要だけど、本当にゼロにできると思ってる?」
「スタッフの努力でゼロにできることと、できないことの違いはどこにある?」
「ダラダラ、テキストを写しただけで、何がいいたいかさっぱりわからん」

問題のとらえ方の甘さや論点の矛盾を何度も指摘され、「お尻ペンペンの方が良かったぁ」と笑っていたが、それでもインターネットで厚労省の資料や他の病院の取り組みを調べ、専門書を買ったり、詳しい先輩に聞いたりと、限られた時間の中でよく頑張った。本やコピーした資料にはたくさんのアンダーラインが引かれ、たくさんの付箋がついていた。僕がビールを飲んでいるときでも、「今日はやめておきます」とお茶を飲んでいたし、「きりの良いとこまでもう少しなので、先に休んでください」と言って、夜遅くまでパソコンに向かっていた。
真剣に考えているときは、眉間にしわが寄り、軽いあひる口になって、くちびるがぷっくりと前に突き出る。一生懸命に頑張っている横顔が可愛くて、意地悪をしたくなったが、邪魔をしないよう、カタカタとキーボードをたたく音をBGMに、書棚にある歴史小説をソファに座って本を読んだ。
結衣や病院がどの程度の内容を期待、想定していたのかわからないが、図表やデータなどを含めて大学院の卒論並みのレポートができた。最後の参考文献を見ただけで、この一ヶ月足らずの短い時間の間で、どれほど勉強したのかよくわかる。

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