第69話 悪路であっても自分で運転するしかない

文字数 1,503文字

質問の意図は言葉通りではない。山下社長の容態は、今回の提携交渉や条件検討に大きく関わってくるため、詳細に確認することは失礼なわけではない。阿部室長にあるのは、本当に社長は倒れたのか、本当に大丈夫なのか、もしかすると交渉を早期に妥結させるために、もしくはそれ以上の意図があって、情報戦をしかけてきたのではないかという疑問だ。それが「本当のところ…」に含まれた言葉の意味だと言って良い。
「ご心配いただきありがとうございます。今日のお昼に連絡があって、来週の水曜日には退院できるとのことでした。阿部室長には、倒れた経緯と治療内容、予後の見込みについて、診断書や医師の意見書を提出させていただくつもりで、専務の美穂子さんに作成をお願いしてあります。次の会議の時にはお渡しできると思います。今回のことは、私にとっても青天の霹靂でした」
じっと、僕の瞳をみていたが、グラスを置くと、
「それは失礼なことをお尋ねしました。今のお話しで十分です。診断書などいただく必要はありません」と軽く頭を下げた。
「いえ、わたしが逆の立場であれば、同じことをお聞きすると思います。タイミングが悪すぎるというか、良すぎるというか、どこかに作為があるのではないかと考えるのが普通です」
少しの間をあげるために、水割りを一口飲んだ。
「ただ、個人的には、山下社長には退任していただこうと思っています」
声には出さなかったが、彼の開かれた目には大きな驚きがあった。
「昨日、東京から戻ってくる直前にも病院に行きましたが、山下社長はすっかり元気です。これまで以上に元気だと言って良い。本当です。ただ上場企業の社長ですから、何度も倒れてもらっては困りますし、内容や時期によっては提携いただく御社の評価にも関わってきます。アイデア社長のワンマン会社というイメージも払しょくしたいということもあります。それに何より山下社長は、繊維工学が大好きな技術屋です。このようなM&Aや上場などのトラブルに関わるよりも、新商品の開発に専念してもらう方が、本人にとっても会社にとっても良いと思っています」
「今、このバタバタとした時にですか?」
「そうです。決定事項ではありませんし、無用な誤解や混乱を避けるために昨日は申し上げなかっただけで、今後の提携交渉の中でお話しをすることになろうかと思います。ただ、御社との提携条件にも関わってきますから、私たちだけで決めようとは思っていません。どちらにしても、阿部室長には、御含みいただければと思います」
そう言うと、彼はしばらく、何も言わずに考えていた。

二人しかいないため、周辺の気配を読むことも、雰囲気をコントロールする必要もない。それぞれのペースで会話のテンポや間合いを作ればよい。空気を乱さないプロのバーテンがやってきて、そっと僕の水割りを交換してくれる。
「それは、矢代さんが考えておられるこれからの展開や、落としどころとも関係してくるのでしょうか」
「そうですね。これからの展開には関係があります。山下と御社だけの交渉であれば、押したり引いたりすればよいことですが、今回はもう一人、そこに手を突っ込んできている姿の見えない相手がいます。その正体も本気度も、何がしたいのかも本当のところはわからない。ですから、もう落としどころというものはありません。舗装された広い道を制御できない車で走るか、悪路であっても自分で運転するのかの違いだと思います。それでも、ここまでくれば、もう全てをコントロールすることはできない。できるのは、その場その場でベストを尽くすということだけです」
そう言うと、水割りの氷が解けてグラスがカランとなった。
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