第71話 だれが陰で情報を漏らしているのか

文字数 1,886文字

取り込まれるのが外資か日繊工かと言う視点に立てば、間違いなく日繊工だ。結果的に業務提携の条件を、そのまま受け入れなければならないことになっても、そこにはまだ人間関係や交渉を大切にしたいという社風があるからだ。
M&Aや企業買収を否定するつもりはないが、その効果を最大限に発揮するためには、何よりもそこで働いている人の仕事に対する情熱やプライドというものに最大限の敬意を払わなければならない。会社というものの価値を生み出しているのは、そこで働く人間である。特に、山下繊工のような、技術力や開発力を中核とするクリエイティブな会社に対して繁みの中から敵対的買収を仕掛けるなど、家内工業から発展してきた日本型の中小企業に対する根本的な認識が欠落している。
外資系企業が買収すれば、ワクワクするような楽しさや情熱に支えられた開発力、技術力は発揮できなくなる。山下繊工という名前はなくなり、繊維業界から消えゆくことになるだろう。一時的には会社の持つ複数の特許は取得できるかもしれないが、この日進月歩で進化する業界の中では、その価値は数年で減価償却されてしまう。買収を仕掛けた企業が、想定通りの利益を出せずに大損するのは自由だが、それは山下繊工だけでなく、そこで働く労働者にとっても、科学技術の発展や経済、社会にとっても不幸でしかない。

しかし、室長がその気になってくれたとしても、提携を成功させるのは容易ではない。
上場企業の株取引は、TOB(公開買い付け)などの例外を除き、基本的には株式市場を通さなければならない。外資系企業のような歴史の浅いワンマン企業の方が、物事の変化に対応するスピードは速く、日繊工のような社員や株主に対して大きな責任を負う大企業では追い付けない。株の奪い合いになれば、日繊工は手を引くだろう。
それと、もう一つ、気になっていることがある。
情報を誰かが、漏えいしているということだ。タケの話によると、これまでも海外進出や外国企業との提携話があったが、まったく煮詰まっていない段階で、すべてどこからかその情報が漏れていた。情報管理が甘いと言えばそうだが、そのようなコアな経営情報を、一般の従業員が知っているはずがない。
逆に、最近の新素材開発の状況や提携の話はしっかり管理されていることから考えると、そのルートは限られてくる。
確証はないが、その人物には心あたりがあった。

阿部室長とホテルで話をした日の2日後、11月7日の金曜日の午後には、安定していた株価が、いつもと違う動きをみせてじりじりと下がり始める。どのくらいの規模で売られているのかが、タケがチェックしてくれている。ストップ安や急落、暴落として注目されない程度に、小出しにして売り出しているようだ。ファンドやその手先の株主の一部に社長の健康不安の情報が漏れたということを示している。
ファンドが手持ちの株を売っているからといって、山下繊工から手を引くというわけではない。値段が付く程度に小さく売却することで利益を確定させ、その情報がオープンになり、株価が急落した時に、底値で買いなおすという作戦だ。
翌週の月曜日も同じ気配がつづく。
火曜日、山下繊工の社長が倒れたという株式ニュースがインターネットで流れると、一気に売りが集中する。山下繊工は、その事実を認めつつも、手術は成功し、体調は回復しつつあるという談話を発表する。それでも株価の低下は収まらず、その日はストップ安となり、値段がつかない。
水曜日には一旦、寄り付いたものの、ネット上で「相当重篤な状態なのではないか」「この春に脳梗塞で一度倒れたと聞いたことがある」「身体に麻痺が残っているらしい」といった、様々な怪情報が乱れ飛び、再び売りが加速する。山下繊工は、ホームページ上で、一定の事実を認めつつ、回復期にあるということ、麻痺は軽度なものであったことなどの説明を行うが、防戦一方という感は否めない。
その後、SNS上で、山下繊工に対する怪情報や論評がすすむ中で、チャッピーというハンドルネームを持つ、業界通、事情通と称する人がでてくる。様々な怪情報について真偽は不明としながらも、山下繊工の開発力は、山下社長のアイデアや技術力に大きく依存しているため、健康不安がある以上、会社の立て直しは難しいのではないかという雰囲気が醸成されていく。
そして、ついに社長が退任するのではないか、社長交代を検討しているのではないかという噂が流れ、山下繊工としてそれを明確に否定しなかったために、株価は下落を続け、金曜日の14日に株価が落ち着いた時には、前週の1/3程度になっていた。

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