第66話 どちらに転ぶか 交渉の始まり

文字数 1,495文字

連休明けの11月4日、火曜日の午後六時半。
前回の訪問からまだ一週間しか経っていない。いただいたご提案への回答の他、早急にお伝えしたいことがあると言うと、その日のうちに時間を設定してくれた。
急なアポイントだったにも関わらず、前回のメンバー6名に加えて、開発担当の常務と開発部長も顔をそろえていた。対して、こちら側の参加者は、僕一人だったため、どういうことだろうかと訝しげな顔をする人もいたが、それには気付かないふりをした。
「まずは、今回の提携交渉の基軸となる新素材の機能について、金曜日に最終的なデータが検査機関から送られてきましたので、お知らせします」
そう言って、三枚ほどにまとめられた簡単な資料を全参加者に配布し、簡単に説明をした。開発担当常務と開発部長には、雅弘さんと美穂子が徹夜で作り込んでくれた30枚を超えるレポートと複数の検査機関からのデータ書類のコピーを渡した。
繊維会社の役員といっても、開発担当の二人以外は、繊維工学の知識は僕とさほど変わらないだろう。二人からはいくつかの質問が寄せられたが、専門家同士が気になることは決まっているようで、すべて想定問答の中に含まれているものだった。
「私は以前、東京で山下社長にも何度かお目にかかったことがございます。同じ技術者として深く尊敬しておりますし、今回の新素材も他に例のない素晴らしいものです」
開発担当常務はそう言って、他の役員の顔を見ながらその内容を絶賛してくれた。そして、そのレポートと検査資料を僕に返そうとしてくれたが、それには首を振った。
「レポートと検査資料は差し上げます。前回、みなさんが、私たちの突然の申し出に対して、真摯に検討していただいたことへの返礼だと思っていただければ結構です。正直申し上げると、私もそれほど科学的なことや技術的なことは詳しくはありません。特に、今回のような特殊な最先端の化学技術については、回答させていただいた内容も、個別の専門用語の意味も十分に理解してお話しているわけではありません。これ以上、色々とご質問いただくと、ぼろが出そうなので、こちらも差し上げます」と、睡眠時間を削って何度も読み込んだ、マーカーと折りあとのついた想定問答集も渡した。開発や技術の根幹になることは含まれていないが、重要機密であることは間違いない。
「ありがとうございます。勉強させていただきます」
開発担当常務は、そう言って開発部長とともに、わざわざ立ち上がって頭をさげた。

「実は今日、急に無理を言ってお伺いしたのには、もう一つ理由があります」
そう言うと、会議の雰囲気がピリッと引き締まる。僕もこれくらいのことで懐柔できるとは思っていない。ここからが本論だということは、相手もわかっている。
「実は、いまお褒めいただいた社長の山下が、金曜日の夜に心筋梗塞で倒れまして、現在、大学病院に入院をしております」
「えぇっ‼」
できるだけ静かに言ったつもりだったが、びっくりした何人かの役員の口からは大きな声が漏れ、開発常務は腰を浮かせた。柔らかな雰囲気の中で優雅にコーヒーを配っていた秘書の方もその声に驚いて、ガチャリと大きな音を立てる。
「本来であれば、社長の山下も先日お邪魔した副社長も、本日一緒にお伺いすべきなのですが、そういう事情で、私ひとりになってしまったことを、お許しください」
驚きのあとには、沈黙が支配する。しかし、それは深い沈黙ではなく、ざわついた沈黙だと言った方が良いだろうか。表面上は静寂を保っているものの、それぞれが顔を見合わせながら、頭の中をフル回転させて、山下繊工との提携交渉への影響や課題を考えているからだ。

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