第43話 鯖寿司とリスクマネジメント

文字数 1,712文字

母の実家は大きな商家だが、我が家は普通のサラリーマン家庭。祖母が亡くなってからは、祖父もよく東山の家にきて一緒に食事をしたり、こちらから出かけることも多かったが、その時でもそれほどたいしたものを食べていたわけではない。
父は、忘年会や歓迎会など特別なことがない限り、仕事が終わればまっすぐに家に帰ってくる人だったし、祖父の希望で、月に一度みんなで外食する以外は、兄や僕が高校生になっても、夕食は家でそろって、手を合わせるのが通例だった。
我が家の食卓で思い出すのは、何といっても『さば寿司』。
なんでも、父が故郷の佐賀から京都に集団就職ででてきた日に、会社の社長の奥さんに初めて食べさせてもらったのが、さば寿司だったという。鯖そのものは高価な魚ではないが、京料理の一つであり、百貨店などに入っている有名どころで買うとそれなりに値が張る。育ちざかりの男の子二人を含め四人で食べる量となると、いつでも食べられるわけではない。ただ、結婚記念日や誕生日など、いわゆる我が家のハレの日には、必ず座卓には背の丸いさば寿司がのった。父が課長や部長に昇進した日、ボーナスの日もさば寿司だった。理由がわからなくても、夕食に並ぶと、「今日は何の日だろうか」「何か良いことがあったのか」と子供心に嬉しく思ったものだ。それだけに父が最初に箸をつけないと、先に手を伸ばしてはいけない雰囲気があって、父が母と楽しそうに話をしていると、「待て」の姿勢で兄と目を合わせていた。

さば寿司とセットなのがナスと鰊の煮物。
京都では煮物のことを、炊いたものと言う意味の『たいたん』という。つまり「お茄子とニシンのたいたん」。京都のおばんざいとしては定番のもので、季節によって内容は違ったかもしれないが、さば寿司の日には、合わせて母が家で作っていたイメージが強い。
それと、もう一つは少し甘目のポテトサラダ。玉ねぎときゅうり、ニンジン、ハム、そしてゆで卵が入っていた。母はそれほど手の込んだものを作っていたというイメージはない。ドンドンと長方形の長座卓の上に大皿料理がならんで、母は父にビールをついで、自分も少しだけ飲んで、父以外のご飯のおかわりは自分でついで、ワイワイと話をしながら取り分けて食べるというのが我が家の夕食時のいつもの風景だった。

「お待たせしました」
冷やしてあった白ワインといっしょに結衣が運んできたのは、生ハムと野菜のスティックサラダ、かにかまと自家製キャベツの浅漬けの和え物。
ビールや日本酒、焼酎はあまり酔わないが、ワインはすぐにアルコールが全身にまわってボーッとしてくる。すぐに酔ってしまうので、結果的に摂取量が限定され、翌日に残ったり、気分が悪くなるということはない。
「ハルさんが酔ってしまう前に私もひとつお願いがあるんです」
「あら、めずらしや」
「この間、病院長と総師長に呼ばれて、病院内のリスクマネジメントの課題や方向性についてレポートを書くように言われたんです。どういうふうに書いたらいいのかわからないので、教えてもらえませんか?」
新しい病院長から、市民に選ばれる医療機関となるよう、リスクマネジメントや職員教育を強化する方針が示されたという。机の上には、医療のリスクマネジメントに関する二冊の本が置いてある。
「ええよ。でも僕の指導は結構厳しいよ。それと僕はコンサルタントなので、親しき仲にもタダというわけにはいかない。費用はどうしよかな」
「えっ、どうしましょ?」
「では、身体で払っていただこうかな。『結衣がたっぷりと愛のご奉仕を致します』って宣誓してください」
「えぇ~そんなの~」と最初は恥ずかしがっていたが、右手を顔の横に上げ、目を見て、声を出して宣誓させる。
「よし、契約完了。で、どんなこと書くん?」
「どんなことを書けばよいのか、そこから自分でもよくわかってないんです」
「なんじゃそりゃ。それはいつまでにださんとあかんの?」
「期限は言われていないんですけど、九月中に提出できればと思っているんです」
「あんまり時間ないやんか」と笑うと、「でも、もうだめですからね。ちゃんと契約したんですから、手伝ってくださいね」と勝ち誇ったように言って笑った。
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