第34話 お母さんが好きだった浴衣

文字数 2,027文字

兄の好きなまめ餅を途中で買って、堀川通りでタクシーを降りる。
宵山当日は、夕方六時を過ぎると、堀川から八坂神社まで四条通りは歩行者天国となる。いつも渋滞する市内中心部を横断する大きな幹線道路を東に向かってゆっくりと歩いていると、祇園囃子とともに、遠くに山や鉾の灯りが見えてくる。
祇園祭の期間中は、まるよしも遅くまで開けているが、販売目的ではなく、お店に挨拶に立ち寄られる常連さんのための休憩所という意味合いが強い。もちろん、お客さんもてぶらではなく、「来年、孫娘が成人式でなぁ~。あっちゅう間に大きいなって」などと何気ないみやげ話をもってくる。それが京都という街。
店についたのは午後七時。僕らが来ることがわかっていたのか、兄の家族も勢揃いしており、店の中に入ると、入り口付近にいた兄の方から近寄ってきた。

「やはり、あなたでしたか」
「佐々倉結衣と申します。このたびは、素敵な浴衣を作っていただきまして、ありがとうございました」
緊張のせいか、練習の時よりも少しだけお辞儀が深くなった。
「その節は大変お世話になりました。真純が、ハルの彼女は紺色の眼鏡の看護師さんに違いないと言うので、今日はお目にかかれるのを楽しみにしていたんです」
奥から久美ちゃんと子供たちも一緒にでてきて挨拶をする。「ほらね、お父さん。私のお話ししてた方でしょ」と、最近、お年頃でツンとしている真純も、さすがの京女で如才なく対応している。その間に立っているのは照れくさいので、結衣の浴衣を選んでくれたベテランの従業員の方にお礼を言って、たたきの奥にあるソファに座る。
店に入って一目見た時から、真純が来ているのは母のお気に入りだった浴衣だと気が付いていた。白地に淡い藍と青の小さな絞りが入るシンプルな柄だが、それだけに上手く着こなすのが難しい。何度も着付けを手伝わされた僕にとっても思い入れのあるものだ。
「真純、ちょっとこっち来い」
そう呼ぶと、いつもと何か少し違う雰囲気を感じたのか、素直に寄ってくる。
「それ、おばあちゃんが一番気に入ってた浴衣やな。よう見してくれ」
と言うと、日本舞踊を習っている真純は、手首をまげて袖口をもち、そでを軽く上げ、少し腰を落とすようにしながら、舞うようにゆっくりと一回りする。
「反対に回れ」
少し緊張したように、もう一度そのままの姿勢で反対に回る。久美ちゃんはその理由をわかっていて、真純がその浴衣を着ていることを僕がどのように思っているか、気を悪くしているのではないかと、少しこちらを気にしている。
立ち上がって、その襟元と帯を軽く直してやる。
「お前は、おばあちゃんによう似てきたなぁ。真純がその浴衣着てくれて、母さんも喜んでるやろ。うちの家にも、髪飾りとか、帯留めとかぎょうさんあるし、気にいったもんがあったら、遠慮せんともうたってや」
そういうと、少しびっくりしたように目を潤ませて、「ほんま? 真弓おばあさまに似てる? 嬉しい。ハルちゃん、おおきに」といって下駄の先を伸ばして抱きついてきた。
そして耳元で、「お礼言うてはなんやけど、ハルちゃんの彼女さんエエ人やし、仲良ししたげる」とささやくように言って振り返り、「結衣さん、私が鉾をご案内します」と一方的に宣言をして、驚く結衣の手をひいて、一緒に表の人混みの中に出て行った。
「結衣ちゃんか。かわいらしい素敵な人やな。ええなぁハルは、いつまでも若い女の子と楽しそうで」と、兄が珍しく軽口をたたくと、「おばちゃんでかんにんね、私も、初めてお会いした頃は、もうちょっと若かったんですけどね」と久美ちゃんが笑いながら、「おもたせですけど」とお茶とまめ餅を運んでくる。冷房のよく効いた室内に、ほんわかとした空気がながれる。

今日、わざわざ時間を指定して、ここに寄ったのは、もう一つ理由がある。
「タカちゃん、それはそうと、チョット相談したいことあんねんやわ」
「なんや。めずらしいな」
その雰囲気に、久美ちゃんは「ハルちゃんとお父さんは大切なお話しやし、お母さんとあっち行ってよ」と、花柄の浴衣を着て、僕の膝に乗ってポンコポンコしている真琴を連れて奥へ行った。
兄は、東京で何度か美穂子にも会ったことがあり、口にはしないものの、山下繊工との様々な確執や破談については知っている。現在の経営状態やファンドから目をつけられていることについても、耳にしているはずだ。彼は一橋大学の経営学部を卒業した経済・経営の専門家であり、僕がひそかに考えている一つのかすかな突破口の可能性について意見を求めた。
僕の話を聞き終わると、しばらくじっと考えていた。言いたいことがたくさんあるのはわかっているが、何も言わなかった。「まぁ、それが上手いこといくかどうかは、残り時間やタイミングの問題もあるやろ。難しいと思うけど、どういう順序でどこに話を持っていくのがええか、チョット考えてみる」と請け合ってくれた。
ただ、その代りにと言って一つの条件を提示された。
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