第64話 傲慢さとふがいなさに声が震える

文字数 1,923文字

近くの私鉄までの江戸川沿いの道を、タケと二人で歩く。
「ハルさん、先ほどの案はどう思われますか?」
僕が賛同していないことは、長い付き合いから雰囲気でわかっているらしい。
「どうやろな、シナリオ通りに進むかもしれんけど、進まんかもしれん。情報が漏れるタイミングとそれに対する市場の反応、もろもろのスケジュールが管理できんかったら、最悪の結果を招くことになる。ひとつでも穴ができると、ボロボロに負ける」
いま、管理すべき情報は三つ。高機能繊維素材の完成、日繊工との提携、社長の入院。
新素材と提携は、いわばプラス面の情報で、どちらも情報を持つ人数が限定されており、漏れる可能性は低い。しかし、もう一つの社長の入院・体調不安というマイナス情報は、社員全員が知っているし、日中に救急車が大きな音を鳴らしてきたので、どこかで漏れる可能性が高い。特に、山下繊巧の情報を鵜の目鷹の眼で集めているファンドに必ずもれる。口止めすることはできないし、聞かれれば嘘をつくことはできない。口を濁すということは、事実を認めるということだ。
「それと、時間ですよね。おやっさんの退院まで情報管理できるか」
その通り、提携交渉で条件を詰めていくには、もう少し時間がかかる。その間に入院の話が漏れて株価が下がれば、その隙にファンドの介入を許すことになる。その結果、提携交渉が不調になるだけでなく、すべてをハゲタカに掻っ攫われることになってしまう。残念ながら、情報が二つともこちらで完全にコントロールできない限り、タケの案は成立しない。
「あかんというてんのやないで。他の方法いうても、伸るか反るか、一か八かみたいなもんしか残ってないしな。あの資料の通り、他にどういう方法をとっても、どのようなルートを通っても、必ず障害はでてくる。タケのおかけで頭すっきりした。なんやこの感覚、昔とかわらんな」
「僕も、資料作りながら、そう思ってました」
一筋の光明を見つけようと、頭をひねらせても、見えてくるのは谷の深さだけだ。
もうわかっていた。どの方向に進んでも、これまで通り、独立した経営権を維持することはむずかしい。取り込まれるのが外資のファンドか日繊工かの違いでしかない。
川の土手を歩きながら、「タケ、あの資料つくるの、どれくらいかかった」と聞くと、「一二時頃までですかね」と、隈のかかった充血した目で笑う。それは夜中ではなく、昼の一二時で、一睡もしないで会議の直前まで考え、作っていたと言うことだ。
「おおきに」
「ハルさんを、京都から引っ張り込んだのは俺ですから、これくらいのこと何でも」
「そのことにも感謝してんのや。タケ、ほんまありがとう」
立ち止まり、頭を下げると、彼はグッとくちびるをかみしめ目をさらに赤くした。

ホテルの部屋について兄に電話をした。仲介の労をとってくれた兄には、現在の状況について、説明しておかなければならない。電話口で一瞬絶句したのがわかったが、その後は、普段通りに話しを聞いてくれた。
「日繊工さんには、火曜日に僕の方から出向いて話をしよと思てる」
「それがエエやろ。先に連絡してくれておおきに」
「タカちゃんにも世話になって動いてもうたのに、こんなことになって申し訳ない」
そう言うと、兄はしばらく黙っていたが、ゆっくりと大きく息を吐いた。
「ハルの家で、みんなでご飯食べたときの話やけど、久美が母さんから、『会社なんてどうでもええんや、人を紡いでいくことが大切なんや』って言われたっていうてたやろ。聞いて僕も胸を突かれた。父さんが先に亡うなって、お祖父さんがおらんようになって会社を受け継いだときは、大変なことになったと思たけど、真純やナリが大きなって、ちょっとずつでも、しっかりしてきたんを見ると、その通りやなぁって思うんや。それが、父さん、母さんが俺らタカとハルに託したもんやないかな」
兄は、問題の本質を見抜いていた。直接的に言葉にはしないけれど、同じ失敗を二度するなと言っているのだ。前回、僕が失敗したのは、会社や経営の安定だけにこだわって、大切なことを見失っていたのではないか、だから、成功、失敗に関係なく、多くの人が傷ついたのではないか、と言いたいのだ。
「タカちゃんの言わんとしてることは、ようわかる」
何とかそう言ったが、自分の傲慢さとふがいなさに、声が震えた。
「まぁ、そうは言うても、ハルは経営コンサルタントやし、会社の経営を指南することで、お金もろうてんのやしな。母さん式に言えば、『おとこはんは大変やなぁ』ってとこや」
そう明るく言うと、まだ起きていて、近くにいたらしい真琴が電話を替わった。
「ハルちゃん、お仕事頑張ってなぁ。また遊びにつれてなぁ」
兄の優しさが身に染みた。

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