第51話 お義母さん方のおばあちゃんの新蕎麦

文字数 1,467文字

10月に入って最初の金曜日の夕方、結衣を病院まで迎えに行く。
急患が入ったので、30分ほど遅れるというメールがあり、駐車場に車を入れて、読みかけのペーパーバッグを広げる。フェンスの向こうでは居酒屋「やまびこ」のご主人が開店準備に忙しそう。自分のいた病室の窓を見上げる。病院は外からみるのと中から見るのとは、これほどまでに景色が違うものかと、健康のありがたさとともに、あらためて思う。

結衣が走り寄ってきて車に乗り込むと、「ふぅ~」という大きな息を一つ吐いた。
「おまたせしました」
「おつかれさん」
「レポート手伝っていただきありがとうございました。おかげさまで良いものができました。前にハルさんが、学生とプロの教育は根本的に違うものだと言われていた理由がわかりました。ちょっと考えが甘かったです」と助手席からこちらを向き直って頭をさげる。
「そりゃよかった。一応契約義務は果たしたということかな?」と言うと、「はい。今日は久しぶりだし、ハルさんが眠れないほどがんばりますよぉ」と、疲れた目をキラキラさせながら、腕まくりをするマネをする。

その日は、準備がしてあると言うのでマンションに戻ってから結衣が夕食を作った。
揚げたてのエビやイカ、グジ、九条ネギ、ぎんなん、カボチャ、しいたけの天ぷら、それと山菜のかき揚げをを抹茶塩と天つゆで、いかの燻製も磯辺揚げにして七味マヨネーズで食べると、日本酒がグイグイとすすむ。もう一つのメインであるざる蕎麦は、生ワサビを結衣が隣で少しずつおろしてくれるのをそばに乗せて食べる。それといつものだし巻き。
蕎麦は、そば粉の芳醇な香りが鼻にぬけるだけでなく、よく見れば幅に微妙な違いがあり、一般の商品ではないことがわかる。
「美味しいお蕎麦やね。これはどうしたん?」と聞くと、
「お母さんに電話して、御世話になっている人達にふるまいたいからって、昨日、家に着くように送ってもらったんです。お母さんの実家のおばあちゃんは、信州そばのそば打ち名人なんです。今年のそばの実をつかった新そばですよぉ」
そう、少しハニカミながら話す。

誰も悪くないし、誰もこれ以上傷つく必要もない。結衣は、早く大人にならなければならなかったため、親に甘えることに慣れていないだけだ。新しい母親にとって、血のつながらない娘が甘えてくれることがどれだけ嬉しいか、今回の電話をどれほど喜んでいるか、結衣もわかっているだろう。亀裂はそれほど大きくはない。みんなそれを修正したいと心から願っている。必要なのはきっかけだけだ。
「それは良かった。ナリもあの後、ちょっと心配してからな」
「ナリくんが将棋しながら、『結衣ちゃん、生意気なこと言うてごめんね』って言ってくれて、嬉しくて申し訳なくて抱きしめそうになりました」
「ギュッとしたったらよかったのに、ほしたら将棋勝てたのに」と言うと、「ほんと、その手がありましたね。負けそうになったらやってみよ」と、結衣もいたずらっ子のように笑う。
「おそばと一緒におりんごや野沢菜漬もたくさん送ってきたので、お兄さんのところにも、御裾分けしようと思っているんです」
「ほな、そう言うて電話してみ?」
父の命日に、矢代の家で食事をしたことから、久美ちゃんから、次は結衣と一緒にご飯を食べに来てくださいと言われていた。電話をすると、明日の土曜日の夜は、みんな家にいるからちょうど良いということになった。電話の後ろで、「明日、結衣ちゃん、うちに来るん? やった~、やった~」と真琴のはしゃいだ声が聞こえる。もうハルちゃんはおまけになったようだ。
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