第94話 春の想い
文字数 1,491文字
YouTubeをいろいろ観ていて衝撃を受けた動画があります。
トーマス・クヴァストホフをご存知でしょうか?
シューベルト 冬の旅 第一曲『おやすみ』
https://youtu.be/iJETtWr47PY?si=m2Ytc4VRLWbTydLt
トーマス・クヴァストホフは1959年11月9日に西ドイツのヒルデスハイムで生まれた。
母は妊娠中につわりを抑えるため制吐剤としてサリドマイドを服用しており、この薬害によってトーマスは重篤な障害を持って生まれた。
身長は134cmと低く足は長管骨に影響が出て短く形成され、アザラシ肢症により手も短い。
肉体的なハンデを背負ったトーマスではあったが、17歳のころから声楽の勉強を開始し、ハノーファーの音楽院への進学を希望するが、「ピアノが弾けない」という理由により入学できなかった。
トーマスはハノーファー大学に進学して3年間法学を専攻。卒業後は北ドイツ放送に入り、ラジオアナウンサーを務めたほか、テレビ番組の音声担当も行った。
トーマスが音楽活動を始めたのは1984年のことである。
ヴュルツブルク、ブラチスラヴァでのコンクールに入賞ののち、1988年にミュンヘン国際音楽コンクール声楽(バリトン)部門に出場して優勝。
歌手に専念し、1989年にはグスタフ・マーラー・フェスティヴァルにおいて『さすらう若者の歌』を歌い、1995年にはアメリカデビューを果たす。
1998年の同音楽祭では世界初演となるペンデレツキの『クレード』でソリストの一人となり、そのライヴ録音は2003年度グラミー賞の最優秀合唱作品部門を受賞した。
2003年、トーマスはザルツブルク復活音楽祭に出演し、オペラデビューを果たす。
カーネギー・ホール進出が企図された2006年、トーマスはこれまでとは違うジャズの分野にも進出し、ドイツ・グラモフォンからアルバム をリリースした。
2011年10月、喉頭炎と診断され、ジャズのステージからの引退を発表。次いで2012年1月11日、トーマスは自身の公式サイトで健康上の理由により歌手生活からも引退することを発表した。 引退声明の中でトーマスは
「自分の健康状態が、自己の持つ高い芸術水準を維持するには無理が生じた」
とした上で「新しい人生への挑戦が楽しみである」ことを述べた。
引退後は教職活動、2009年に自ら立ち上げた2年に一度の声楽コンクールである「ダス・リート "Das Lied"」での芸術監督としての活動を継続し、それらに加えて朗読の部門などで活躍している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トーマス・クヴァストホフ
「歌に関しては障害と一緒に評価されたくない、一人の歌手として評価されたい、自分はそれを求められるだけのレベルに達している」
シューベルト 春の想い
https://youtu.be/oEOQ1buE3jc?si=38ptY8OjFeEJNyGA
「音楽の勉強がしたかったのだが、大学では楽器が弾けないからダメだと言われた。そこで個人的に歌を勉強することにした。重要なのはネガティブなことが起きているかどうかではなく、それにどう対処し、その状況から何を得るかである」
10年半以上にわたって学び、キャリアを積んできたが、彼を突き動かしてきたのはある大きな動機だった。
「私が生まれたときから母は(サリドマイドを服用したことに)罪の意識を感じていた。
『その必要はない』と私がいくら言っても母はきかなかった。なので私は母に、私の人生と才能を最大限に活かした姿を見せたいと思った」
トーマス・クヴァストホフをご存知でしょうか?
シューベルト 冬の旅 第一曲『おやすみ』
https://youtu.be/iJETtWr47PY?si=m2Ytc4VRLWbTydLt
トーマス・クヴァストホフは1959年11月9日に西ドイツのヒルデスハイムで生まれた。
母は妊娠中につわりを抑えるため制吐剤としてサリドマイドを服用しており、この薬害によってトーマスは重篤な障害を持って生まれた。
身長は134cmと低く足は長管骨に影響が出て短く形成され、アザラシ肢症により手も短い。
肉体的なハンデを背負ったトーマスではあったが、17歳のころから声楽の勉強を開始し、ハノーファーの音楽院への進学を希望するが、「ピアノが弾けない」という理由により入学できなかった。
トーマスはハノーファー大学に進学して3年間法学を専攻。卒業後は北ドイツ放送に入り、ラジオアナウンサーを務めたほか、テレビ番組の音声担当も行った。
トーマスが音楽活動を始めたのは1984年のことである。
ヴュルツブルク、ブラチスラヴァでのコンクールに入賞ののち、1988年にミュンヘン国際音楽コンクール声楽(バリトン)部門に出場して優勝。
歌手に専念し、1989年にはグスタフ・マーラー・フェスティヴァルにおいて『さすらう若者の歌』を歌い、1995年にはアメリカデビューを果たす。
1998年の同音楽祭では世界初演となるペンデレツキの『クレード』でソリストの一人となり、そのライヴ録音は2003年度グラミー賞の最優秀合唱作品部門を受賞した。
2003年、トーマスはザルツブルク復活音楽祭に出演し、オペラデビューを果たす。
カーネギー・ホール進出が企図された2006年、トーマスはこれまでとは違うジャズの分野にも進出し、ドイツ・グラモフォンからアルバム をリリースした。
2011年10月、喉頭炎と診断され、ジャズのステージからの引退を発表。次いで2012年1月11日、トーマスは自身の公式サイトで健康上の理由により歌手生活からも引退することを発表した。 引退声明の中でトーマスは
「自分の健康状態が、自己の持つ高い芸術水準を維持するには無理が生じた」
とした上で「新しい人生への挑戦が楽しみである」ことを述べた。
引退後は教職活動、2009年に自ら立ち上げた2年に一度の声楽コンクールである「ダス・リート "Das Lied"」での芸術監督としての活動を継続し、それらに加えて朗読の部門などで活躍している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/トーマス・クヴァストホフ
「歌に関しては障害と一緒に評価されたくない、一人の歌手として評価されたい、自分はそれを求められるだけのレベルに達している」
シューベルト 春の想い
https://youtu.be/oEOQ1buE3jc?si=38ptY8OjFeEJNyGA
「音楽の勉強がしたかったのだが、大学では楽器が弾けないからダメだと言われた。そこで個人的に歌を勉強することにした。重要なのはネガティブなことが起きているかどうかではなく、それにどう対処し、その状況から何を得るかである」
10年半以上にわたって学び、キャリアを積んできたが、彼を突き動かしてきたのはある大きな動機だった。
「私が生まれたときから母は(サリドマイドを服用したことに)罪の意識を感じていた。
『その必要はない』と私がいくら言っても母はきかなかった。なので私は母に、私の人生と才能を最大限に活かした姿を見せたいと思った」
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