第93話 仮名 ヒイラギさん

文字数 1,403文字

 ヒイラギさんは最初は楽な入居者さんだった。認知症で車椅子だが自分で立てるし、ひとりでトイレも行けた。
 私より30歳年上の女性。母と同じ昭和⚪︎年生まれ。子どもはなく、住んでいた団地の部屋はひどい状態だったらしい。
 姪御さんが何度か来たらしいが会ったことはなかった。

 夏に入居したヒイラギさん。この方にはいつでも年の暮れだ。
「もう今年も終わりだね。あっという間だね。今年もお世話になりました」
が口癖だ。

 冷暖房完備の施設で半袖を着る高齢者はほとんどいないが、ヒイラギさんの服は半袖が多かった。
 カーディガンがないから半袖は着せられない。きれいな半袖の服はきれいなままだ。数枚の長袖はボロボロになった。
 リーダーが電話で姪御さんに知らせた。
 送られてきたのは……
 デザインの凝った襟ぐりの開いたものが1枚だけ。

 素敵なデザインですね。
 でもね、ヒイラギさんは痩せています。とてもとても細いの。鎖骨に水がたっぷり溜まる。
 だから、襟ぐりから下着が見える。年季の入った下着が。

 冬服が送られてきた。リーダーは説明しないのか? 
 まるでサッカー観戦にでも行くような厚地のズボンが数枚。暖房の効いた部屋では着せられません。場所を取り邪魔なだけだった。

 あと、靴!
 リーダーは感じないの?
 私はヒイラギさんの入浴介助をしていた。ずっと気になっていた。1足しかない靴。かなり汚れていた。
 前の男性職員はきれい好きだった。よく靴を洗っていた。洗濯機のフィルターが汚いと、写真を撮り、それを貼り、気をつけるよう小まめに注意していた。
 その方が辞めてしまうと、靴が干してあるのを見なくなった。

 ヒイラギさんの靴には食べこぼしや、もしかしたら便なんかも付いているかも?

 ある日私は入浴の後、自分の靴を履かせヒイラギさんの靴を洗った。
 風呂場のタイルがみるみる汚れる。何年分の汚れ?
 そのあと私はシャワー用のサンダルで仕事をした。


 ヒイラギさんのシーツ交換に入ったとき……
 においがした。窓を全開して作業したが、数十分後まだ臭気が。
 ヒイラギさんはタンスの中に使用済みのパットを入れる。
 探したが見当たらなかった。私は布の袋を確認した。この方はいつも帰り支度をしている。袋の中には何着かの服、靴下、その下にビニール袋が。
 開けて、それを広げて私は廊下に走った。マスクをしていたが、なお時間の経ったその臭気はすさまじかった。


 夜のパートが足りなくて、月曜日だけ少しの間働いた。
 朝とぜんぜん雰囲気が違う。朝は皆おとなしい……夜は帰宅願望、叫び声。怒鳴り声。
 よそのユニットの人がいる。元気な人が車椅子で走り回っている。
 
 ヒイラギさんは自分でパジャマに着替えたあと、何度も部屋から出てきた。
 そのたび、言う。
「もう、寝る時間? はい、お休みなさい」
「お休みなさい」
と、私は電気を消してドアを閉める。

 すると、少ししてまた同じことが。
「もう、寝る時間? はい、お休みなさい」
 遅番は慣れたものだ。
 異様だ。何度繰り返す?
 車椅子のパジャマのヒイラギさんが私に向かって来た。
「もう、寝る時間? はい、お休みなさい」



 ヒイラギさんが亡くなり、ネコヤナギさん、ミモザさんも亡くなった。101歳のカリンさんも。 
 もう、オープン時から残っているのは、反応のないモクレンさんだけになってしまった。
『迎えに来て』の登場人物はいなくなってしまった。

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