第74話 第九の前に

文字数 1,605文字

 ブティックで働いていた頃は、家に帰るのは夜8時前。トイレも我慢し夕飯の支度。(朝作って温めるだけにしておく)

 年末は慌ただしく、掃除に料理に大忙し。
 慌ただしいのが嫌で、週や月単位で小掃除をしようと決めた。毎年のノートに掃除の欄も作り細かく記録。(手書きです)
 換気扇も月に1度はやっているはず……空白だ。
 月に1度、ダスキン交換の日に家中を掃除する。タンスや冷蔵庫の上、窓、アルミサッシ、カーテンレール、エアコンの上、玄関ドア等真っ黒になるまで。
 だから、どこもそんなには汚れていないはず……楽なはず。
 そして、思う。なにも寒い時にやらなくたって。キッチンは、これからたくさん料理するので正月が終わってからにしよう。

 今は老夫婦のふたり暮らし。物は減らした。押入れ、物入れ、開ければ一目瞭然、のはず。

 掃除のときは音楽をかける。
 ずいぶん前、知り合いがアマチュアオーケストラで演奏した第九のテープをくれた。
 第九の前に曲名の知らないのがあり、お気に入りだった。テンポが良くて掃除がはかどる。その知り合いとは疎遠になり、曲名を確かめることはできなくなっていた。
 作曲者はたしか芥川なんとか……

 この曲、ずっと探していた。
 いつしかカセットデッキはなくなり、聴かなくなっていたが……思い出して調べたらわかった。ほんと、YouTubeは便利。
 
 交響管弦楽のための音楽は、芥川也寸志が1950年に作曲した管弦楽曲。演奏時間は約9分。
 NHK放送25周年記念事業の懸賞募集管弦楽曲応募作として作曲、1950年2月20日に完成された。審査の結果、團伊玖磨の交響曲第1番とともに特賞入賞し、作曲者の出世作となった。

交響管弦楽のための音楽
https://youtu.be/9ye-RJnPxlA

 芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年(大正14年)7月12日 - 1989年(平成元年)1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。
 小説家・芥川龍之介の三男として東京市田端に生まれる。長兄は俳優・芥川比呂志。
 父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。

 父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に
「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」
「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」

 芥川也寸志は結婚を3度している。
 1948年2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織と結婚する。このとき芥川は紗織に対して
「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じている。これはマーラーが妻・アルマに取った行動と酷似しているが、芥川の場合は、彼女の歌が「作曲の邪魔になる」というもっと即物的な理由であった。
 歌を禁じられた紗織は「音のない」美術に転向、程なく画家として認められる。しかし、二女をもうけた後、1957年に離婚した。
 2度目の妻は女優の草笛光子である(1960年に結婚、1962年に離婚)。離婚の原因は、草笛が芥川の連れ子と不仲だったこととされる。
 3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者の江川真澄(1970年に結婚)


 逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された黛による追悼記事に残されている。
 最後の言葉は
「ブラームスの1番を聴かせてくれないか……あの曲の最後の音はどうなったかなあ」
だった。

(Wikipediaを参考にしました)
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