第56話 真剣な話

文字数 1,620文字

 施設では毎年虐待についての講習があるのだが、昨今はコロナ禍のため、テキストを読んでレポート提出のみ。
 どこぞの施設で叩いた。殴った。怪我をさせた。鼻の骨を折った。ひと晩で40回以上殴る蹴る? 髪を掴む。ベッドから引きずり下ろす。寝ないから携帯電話で殴った。
 なぜ? 毎年毎回。どこでも虐待防止の対策はしているだろうに。

 高齢者はすぐにアザができる。見つけたら大騒ぎになる。さかのぼって原因を究明する。うちのユニットには声を荒げる職員さえいない。いい職場だ。虐待を疑いはしない。私がイライラすれば、深呼吸しなさい、と言ってくれる。
 入居者は喋れない者もいるが、喋りすぎる者もいる。風呂に入れたとき、見えるところは丹念に見るが……
「お尻が痛いの。皮むけてないかしら?」
 私は目が悪い。見なきゃダメ?

 暴力は絶対に許されないが、介護士の精神状態のほうを心配してしまう。常習者は論外だし、気付かない周りもおかしいが、真面目な職員が起こしてしまうのを、気付いてやれないのは残念だ。職員も精神的にギリギリだったのだろう。特に夜勤ひとりの時は行き場がないのだろう。

 夜勤だった若い男性職員。その日は発熱していた入居者もいたので、いつもより大変だった。別の女性に、 
「眠れないから一緒に寝てほしい、手を握ってほしい」
と言われ、断ったら衣服にしがみつかれた。
「こんな年寄りをひとりにして、このろくでなし!」
平手打ちを1回。実直な性格で熱心に業務を行うが……虐待防止事例。問題点を考えてください。

 尊厳? トイレに貼ってあります。私たちはいつ何時でも高齢者を人生の先輩と敬い……
 暴言吐かれても、叩かれても、引っ掻かれても、髪の毛を引っ張られても、首絞められても、つば吐かれても、セクハラされても……とは書いてないが実際にいた。そういう時は、記録に残すのみ。

 私もユニットの玄関を開ける前には、深呼吸をして唱える。バカヤローはありがとうに変換しよう、と。
 しかし、入っていった途端にバカヤローの洗礼を浴びる。言い返してはいけないが、無視してしまう。無視は心理的虐待になる。朝から豚がブヒブヒ……そう思わなければ続かないと思う。 

 浴室で腿を叩かれた時も、思わず大声を出してしまった。
「なにすんのよ!」
(このクソババア。ふざけんじゃないよ。優しくしてりゃいい気になりやがって)

 手が出たらどうなっていただろう? 介護なんかに携わったことを後悔しただろう。楽しく働いた5年の月日を2度と思い出したくない……と。

 殴った本人はケラケラ笑っている。
 体を洗えばメガネに水をかけてくる。
 掛け湯をして体を拭いてるそばから漏らす。

 資格ナシだから、最低賃金よりほんの少し高い時給。はっきり言います。8円ぽっち。

 私はパートで、必ず職員さんがいるので愚痴を言える。気軽に言えるが、そうでなければ積み重なっていくだろう。精神的に不安定になり、来なくなる職員が少なくない。

 どっちに逃げろと言う?

 車椅子のお年寄りに言うか?
「殺される前に逃げなさい」と。

 過酷な超勤で、心を無くしていくあなたに言うべきか?
「殺してしまう前に逃げなさい」と。

 常に人手不足。育てた新人は辞めていく。
 次から次に建つ高齢者施設。そんなに建てても、介護職員はいません。だから辞めても行くところはいくらでもある。だから、次々辞めていく。

 どこへ行っても、殺さないで! 
 殺してはだめ。殺す前にそこから逃げなさい。
 放り投げなさい。

 夜勤はひとりで20人をみる。
 また漏らした。大を。手でいじるからベットの柵までべっとり。

 朝行ったら、シーツ交換を頼まれた。夜勤の休憩時間も取れなかったと。よく、ここまできれいにしてあげたね。清拭(濡れたタオル)だけで。

 100歳のカリンさんはそれでも憎めない。きれいに髪をとかし、お気に入りのティアラみたいなカチューシャをしている。


【お題】 ここから逃げて。お願い。
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