第97話 噂話

文字数 1,144文字

 30年前、次女が重い心臓病だろうと診断され大学病院で手術することになった。
 
 夫は治療費と葬式の心配をした。子どもの医療費はまだ無料ではなかった時代。
 母はいざとなると強い。マンションを売ればいい。借金は残るだろうが。たくさん残るだろうが。

 ところが、治療費はタダだった。書類をいただき、保健所へ手続きに行った。封はされていなかったので見てしまった。手術代400万円。それが無料に!
 だから、私は健康保険はいくら高くても文句は言えない。

 手術前はICUで昼夜10分の面会しかできなかった。昼の面会の後、夜の10分の面会まで6時間ロビーで待つ。
 そういう親が何人もいた。成功率は調べたら90パーセント。でもこの子にとっては0パーセントかもしれない。

 台の上にカエルの置物があった。大きな緑色をしたやつが。それを何人かが撫でていた。
 撫でると、無事帰れるらしい。
 そういうことは信じるほうではなかったが、藁をもつかむ思い。渾身の想いを込めて毎日撫でた。
 そしてふたりの子どもの待つ我が家へ帰った。往復3時間。毎日。

 夫は酒を飲むと弱気になった。この男はいつでも最悪を考える。
「手術しないでこのまま死なせてやりたい」
 母親は前しか向いていないのに……母は気丈だったが、弱みは髪に出た。まだ30歳過ぎたばかりなのに白髪が。

 手術の日、生後5ヶ月の次女はワゴンのような物に乗せられエレベーターで降りていった。見送りはエレベーターまで。娘はキョロキョロしていた。
 夫と私はずっとロビーで待った。10時間くらいかかったのではないだろうか? 

 手術が成功すると、回復は早かった。術後は何かあればすぐに駆けつけられる近くの旅館に泊まった。
 回復は早かった。体に付いた管がどんどん外されていく。近くの汚い旅館には1泊するだけですんだ。
 
 全国から子どもが集まってくる病院だった。大勢の子どもが手術の順番を待っていた。
 娘は待てない病気だったので手術も早かった。動脈と静脈が逆になっていた。全身に血液がいかない。肺と心臓の往復で肺が3倍くらい肥大していた。

 そんな説明を執刀する外科医から受けた。小さな部屋で。
 日本で⚪︎本の指に入るという心臓外科医と私と夫の3人だけ。

 待てない病気だから手術の順番を待つこともなかった。術後に周りの親たちに聞いた。
 執刀医には説明のときに、お礼を包むらしい。
 順番が回ってこないときは、お金を渡すと早くしてくれるらしい……
 嘘かほんとか、ほんとか嘘か?

 すでに手術を終えたあとで良かった。まさか、お礼の有無で手を抜くわけにもいかないだろう。
 まさか、お礼のない子は雑に切ったり縫ったり、とか?
 すごーくきれいな傷跡の子がいたけど、まさか、ね。


85話『寄付』と重複します。
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