第47話 小澤征爾 N響事件

文字数 2,204文字

『お気に入りの音楽 2』と重複します。

 今から十数年前、映画『シャイン』のモデルになったピアニスト、デイヴィド・ヘルスゴットのリサイタルに、昭和記念講堂に行ったとき……、前の方の席にいた方は?
 あの髪型は小澤征爾さん?

 小澤征爾(おざわ せいじ) (1935年〈昭和10年〉9月1日 - )は、1973年からボストン交響楽団の音楽監督を30年務め、2002年 - 2003年のシーズンから2009年 - 2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた、世界的な指揮者。

 満洲国奉天市生まれ。小澤家の第三子。
 1945年、長兄の小澤克己からアコーディオンとピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に対して本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価に譲ってもらったピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄と次兄とで3日かけて立川市の自宅まで運搬した。
 1948年4月、成城学園中学校に入学。当時、小田急小田原線で新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学していた。
 中学ではラグビー部に所属する傍ら豊増昇(とよますのぼる)にピアノを習う。当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの試合で大怪我(雨の試合でスクラムで右手人差し指を骨折した)をしたためピアノの道を断念。

 ピアニスト豊増昇(とよますのぼる)は、日本人として初めてベルリンフィルと共演した。戦後と現代の日本で活躍している、あるいは活躍したピアニストの多くが、豊増昇の薫陶を受けている。
少年時代の小澤征爾が、ラグビーで指を骨折し、ピアノを諦めようとした時、
「指揮という道もあるよ」
と言って新しい道を拓いてくれたのは豊増昇だった。

 1951年、成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学。同門に山本直純がいる。
 当時、癇癪持ちの齋藤から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともあった。
 1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現:桐朋学園大学音楽学部)へ進学。
 1957年夏に同短期大学を卒業。4月に卒業できなかったのは、肺炎で卒業試験が受けられなかったためであり、のちに追試を受けて卒業が認められたが、療養期間中には仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て焦りと嫉妬に苦しんだという。
 ただし、このとき父から
「嫉妬は人間の一番の敵だ」
と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが、後になって大変役立ったと語っている。

 短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団を振り始め、群響の北海道演奏旅行の指揮者を担当。
 1957年12月には、日本フィルハーモニー交響楽団の第5回定期演奏会にて、渡邉暁雄の下で副指揮者を務める。 
 1958年、「フランス政府給費留学生」の試験を受けたが不合格となる。しかし、成城学園時代の同級生の父である水野成夫たちの援助で渡欧資金を調達。

 1959年2月1日から、スクーター、ギターとともに貨物船で単身フランスに渡る。このとき、小澤というアシスタントを失うことを恐れた齋藤からは渡欧について猛反対を受けたが、桐朋の父兄会や水野成夫たちの支援を得て、1200ドル(約45万円)の餞別を受けた。

 1959年、パリ滞在中に第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。
 ヨーロッパのオーケストラに多数客演。
 カラヤン指揮者コンクール第1位。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。
 1960年、アメリカ・ボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現:タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。
 1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。指揮者のレナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨーク・フィルの来日公演に同行。
 カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

 小澤征爾とNHK交響楽団が初めて顔合わせしたのは、1961年7月の杉並公会堂における放送録音であった。
 翌1962年には、半年間、客演指揮者として契約。当初は6月の定期を含めた夏の間だけの契約予定だったが、秋の定期を指揮する予定だったラファエル・クーベリックが出演をキャンセルしたため、12月まで契約期間が延長された。
 7月4日にはオリヴィエ・メシアンのトゥーランガリラ交響曲日本初演を指揮するなど小澤とN響のコンビは順調に活動しているかのように思えたが、10月2日の香港を皮切りとするシンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄への演奏旅行でN響と小澤の間に感情的な軋轢が生じ、11月の第434回定期公演の出来ばえが新聞に酷評された。
 直後、11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。

 小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響の理事は小澤を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明を送りつけ、小澤も1962年12月18日、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴える事態となった。
 このため、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表された。

次話へ続く

Wikipediaより引用しました。
 
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