第48話 小澤征爾 N響事件続き
文字数 2,090文字
このトラブルの原因は、小澤が遅刻を繰り返したためという説がある。小澤が
「ぼくは朝が弱い」
と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかったのが、N響から反感を買った一因だったと。
1962年10月の東南アジア演奏旅行における小澤は、ホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄らに恥をかかせた。
その上、
「38度の熱があった」
「副指揮者が来なかったせいだ」
と虚偽の弁解を並べて開き直ったために、N響の信頼を失ったといわれる。
ただし小澤自身は、
「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、首の肉ばなれのため39度の発熱をし、ドクターストップをうけたのだった。
このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒してしまった。しかし、演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」
と反論している。
後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリーで、小澤はこの事件の背景について
「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙って全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」
との趣旨の発言で振り返っている。
しかし、アメリカで育ったような小澤の音楽と、ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリン・フィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが、紛争の原因だという見解が当時、支配的だった。
楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。
しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。
遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった。
この時期、小澤が病気と称してN響との練習を休んだ当日、弟の幹雄の在学する早稲田大学の学生オーケストラで指揮をしている姿を目撃された事件もあり、N響の楽団員の間では小澤に対する反感と不信感が募っていった。
この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展した。
石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、曽野綾子、武満徹、谷川俊太郎、團伊玖磨、黛敏郎、三島由紀夫が、「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志・武満徹といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した。
小澤は活動の場を日本フィルに移し、翌1963年1月15日、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。
三島由紀夫は『朝日新聞』1月16日付朝刊に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表し、
「日本には妙な悪習慣がある。『何を青二才が』という青年蔑視と、もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。
私はそのどちらにも与しない。小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。もちろん彼も成熟しなくてはならない。
今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、これはあくまで正しい戦いであっても、日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。
その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、日本人は亡命者(レフュジー)的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追ひやることは決してないだらう」
「私は彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。
人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。日本的しがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」
と概括した。
結局、1月17日に黛敏郎らの斡旋により、NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。
しかし、
「あの時はもう俺は日本で音楽をするのはやめよう、と思った」
ほどのショックを受けた小澤が次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。
小澤は後年、N響とのトラブルが刺激になって、よく勉強したとも述懐している。
1995年1月23日、サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たした。
小澤はこのコンサートを引き受けた理由として「小澤事件」を知る昔の楽団員が退職したり亡くなったりしていなくなったから、という趣旨の発言をしている。
(Wikipediaより引用しました)
「ぼくは朝が弱い」
と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかったのが、N響から反感を買った一因だったと。
1962年10月の東南アジア演奏旅行における小澤は、ホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄らに恥をかかせた。
その上、
「38度の熱があった」
「副指揮者が来なかったせいだ」
と虚偽の弁解を並べて開き直ったために、N響の信頼を失ったといわれる。
ただし小澤自身は、
「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、首の肉ばなれのため39度の発熱をし、ドクターストップをうけたのだった。
このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒してしまった。しかし、演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」
と反論している。
後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリーで、小澤はこの事件の背景について
「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙って全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」
との趣旨の発言で振り返っている。
しかし、アメリカで育ったような小澤の音楽と、ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリン・フィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが、紛争の原因だという見解が当時、支配的だった。
楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。
しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。
遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった。
この時期、小澤が病気と称してN響との練習を休んだ当日、弟の幹雄の在学する早稲田大学の学生オーケストラで指揮をしている姿を目撃された事件もあり、N響の楽団員の間では小澤に対する反感と不信感が募っていった。
この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展した。
石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、曽野綾子、武満徹、谷川俊太郎、團伊玖磨、黛敏郎、三島由紀夫が、「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志・武満徹といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した。
小澤は活動の場を日本フィルに移し、翌1963年1月15日、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。
三島由紀夫は『朝日新聞』1月16日付朝刊に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表し、
「日本には妙な悪習慣がある。『何を青二才が』という青年蔑視と、もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。
私はそのどちらにも与しない。小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。もちろん彼も成熟しなくてはならない。
今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、これはあくまで正しい戦いであっても、日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。
その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、日本人は亡命者(レフュジー)的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追ひやることは決してないだらう」
「私は彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。
人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。日本的しがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」
と概括した。
結局、1月17日に黛敏郎らの斡旋により、NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。
しかし、
「あの時はもう俺は日本で音楽をするのはやめよう、と思った」
ほどのショックを受けた小澤が次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。
小澤は後年、N響とのトラブルが刺激になって、よく勉強したとも述懐している。
1995年1月23日、サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たした。
小澤はこのコンサートを引き受けた理由として「小澤事件」を知る昔の楽団員が退職したり亡くなったりしていなくなったから、という趣旨の発言をしている。
(Wikipediaより引用しました)
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