五章 8

文字数 1,651文字

「学校はいいのかい?」
「それどころじゃないんでしょう?」
「まあね」
 二人は車である場所に向かっていた。土橋にとっては二度と足を踏み入れないと誓った場所でもある。
 助手席の大塚は美しい顔を窓の外に向けている。
 土橋が恋愛をしなくなって丸三年。今後再び恋に落ちることはあるのだろうか。土橋の心は怒りと悲しみで満たされていて、恋をする心のスペースはなくなってしまっている。
 土橋は事件後、恋をすることが出来なくなった。明と大塚のまるで中学生のような甘酸っぱい恋愛が微笑ましい。
「君は崎本くんのことが好きなんだろ?」
「多分……」
「多分?」
「恋愛の仕方忘れちゃったから……」
「俺もだ……」
 大塚と自分は似ているかもしれないと思った。今なら大塚は答えてくれるかもしれない。
「君は子供の時、記憶を失ったことはないかい?」
「え?」
 運転中なので大塚の顔をしっかりとは見られなかったが、恐らく驚いているのではないだろうか。
「やはりそうなんだな?」
「ええ。交通事故にあって記憶を失ったの」
「交通事故?」
「その事故で父を亡くしたの。殺された父のことじゃないわ。あたしは彼の本当の娘ではないの」
「ああ、知ってるよ。その事故の話はお母さんがしてくれたのかい?」
「ええ。記憶を失ったあたしに母が教えてくれたの」
「お母さんが……、ね」
 点が線に繋がってきた。富美は娘が記憶を失っているのをいいことに、都合のいい記憶を植え付けたのではないか。――ということは、やはり富美=綾子なのか?
 土橋は目的地に近づくにつれて、心臓が激しく脈打つのを感じた。同時に目の前で赤い炎が燃え上がった。炎が視界を遮って何も見えなくなる。
 慌てて土橋はブレーキを踏み込んだ。後続の車がけたたましくクラクションを鳴らした。追い抜き様に“馬鹿野郎!あぶねえだろ!”と怒鳴った。しかし、土橋にはそれに答えている余裕はなかった。
「どうしたの?急に」
 気がつくと炎は消えていた。――また幻か?
「いや、何でもない」
「すごい汗よ。何があったの?」
 額を触ると、確かに大量の汗が噴き出していた。 土橋は首から上しか汗をかけない。
「目の前に炎が……」
 身体中が震えだした。止めようとしても止められない。自分のものではないかのようにガタガタと震える。身体中に炎が回る。熱い。身体がしきりに熱いと訴える。次第に熱さは感じなくなって、むしろ冷たいと感じる様になった。ゆらゆら揺れる炎が死の恐怖を駆り立てる。“ジジジ”と眼球が焼ける音が聞こえる。――もう死ぬんだ。
「大丈夫!」
 大塚の言葉で現実に引き戻された。土橋の手を握り、必死に訴えていた。
「大丈夫!炎なんてない。大丈夫!」
「は!はあ、はあ、はあ、はあ」
 土橋は網膜の奥に焼き付いた炎を追い払った。彼女の言葉で落ち着くことができた。
「も、もう大丈夫だ。すまない……」
 大塚は車から降りて、自販機でミネラルウォーターを買ってきてくれた。受け取って一気に飲み干した。飲み損なった水で服が濡れてしまったが、そんなことは気にしている余裕はなかった。今は喉に水を流し込みたかった。
――あの時の永遠とも思える喉の渇き……。もう二度とゴメンだ。
「少し休みましょう」
 大塚の目は潤んでいる。零れ落ちるのを堪えているように見えた。
――こんな俺に同情してくれているのか?君だって二人の父親を亡くして辛かっただろう?
「本当の奈々が解る……か」
 大塚は口から零れた水を拭いてくれた。
「何か言った?」
「いや、もう大丈夫だ。行こう」
「……」
 大塚の目は「本当に大丈夫なの?」と言っているような気がしたが、土橋は敢えて気がつかない振りをした。今はやるべきことがある。
 深く深呼吸をしてから、アクセルを踏み込んだ。
――そうだ。俺にはやるべきことがある。
 
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