五章 10

文字数 1,239文字

「くそ!もう明日だというのに」
 辻元は苛立たしげに資料を壁に投げつけた。これまでに何度も何度も読み返した資料だった。
 辻元は刑事になって六年目。元々は刑事になりたかった訳ではない。そんな辻元が刑事を目指すきっかけとなった事件が一○年前に起きた。投げつけたのはその事件の資料だ。
 当時交番勤務をしていた辻元は現場に一番に駆けつけた。まずは現場の保存を優先させるために母子を外に連れ出した。母親は泣き崩れていた。
 辻元にとって初めての殺人事件だったため、こういう時にどう対応していいか解らなかった。戸惑いながらも必死に母親を慰めた。娘はよほどショックを受けたのか、目の焦点が定まらず虚空を見つめていた。こちらが何を話しかけても答えは返ってこなかった。
 辻元は犯人を憎んだ。この母子から父親を奪った犯人を――。

 ところが捜査本部が最初に容疑者候補に選んだのは母親だった。父親が亡くなって多額の保険金が下りるというのが疑う理由だった。
 辻元はあの母親が犯人だとは思えなかった。辻元は若かったし、“すべての女性が女優である”などと考えもしなかった頃だった。捜査には制服警官も駆り出され、辻元も聞き込みなどをして初めて刑事事件の捜査に携わった。
 辻元は燃えた。ここで手柄をたてて出世したいという野心がなかったと言ったら嘘になるが、それ以上にあの母親の涙を見たくなかったからだ。
 すぐに母親の疑いは晴れた。彼女にはアリバイがあった。疑いが晴れてからも辻元は足繁く滝沢邸を訪ねた。母子が心配だったからだ。
 母親も若い辻元に心を許し、頼りにしてくれた。しだいに母親とプライベートでも会うようになった。まだ何も知らない若造だった辻元は、捜査内容を母親に話してしまった。そう。辻元は母親を愛してしまったのだ。
 結局犯人が見つからないまま、捜査本部は解散された。その後、母子は辻元に何も言わずに姿を消した。
 同僚からは騙されていたのだろうと陰口をたたかれた。その日から辻元は刑事になるとを決意した。刑事になってこの事件を解決する。それが目標になった。
 しかし刑事になった今も、事件は何も解決していない。それどころかその犯人は名古屋で一件、さらに堂明で四件の殺人事件を起こしていた。管轄が違ったこともあって、不覚にもそのことに気がつかなかった。
 取り調べをした土橋や大塚を調べるうちに、一○年前の事件との共通点に気づかされた。五年前から毎年人が殺されている。今年も間違いなく人が死ぬだろう。
 東雲は自分が犯人だと言ったが、一○年前と五年前の話はしなかった。彼は徳田と田中梨香子は殺したが、過去の事件の犯人ではない。辻元はそう確信していた。だから東雲の死後、必死に捜査資料を読みふけった。でも何も解らない。
 焦りばかりが募り、資料に八つ当たりするのも一度や二度ではなかった。
――七月二五日は明日だというのに。
 辻元は資料を拾い、再び読み始めた。
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