三章 1

文字数 1,563文字

 新幹線を使って『名古屋駅』に到着した。冷房が効いた車内から降りると、湿気を大量に含んだ熱気が身体をなじる。明らかに空気の質が違う。わずか数分で顔から汗が噴き出してきた。土橋はすぐに涼しい地下に逃げ込んだ。
 市営地下鉄を使って目的地に向かうことにした。一度乗り換えて『いりなか駅』で降りた。土橋はプリントアウトした地図を見る。歩いて行けそうだ。
 土橋は汗みどろになりながら一五分程歩いて、高級住宅が建ち並ぶ地域に着いた。
――本当にここだろうか?
 辺りにはどう見ても金持ちですと主張する家々が並んでいる。母と子二人が住める場所だろうか。家と土地を売却したお金がそれほどあったのだろうか。土橋の疑問はすぐに解消された。目的の住所には、そこの一角だけ別世界だと感じるような、三階建ての古いアパートが建っていた。周りの高級感とは正反対。土橋は遥かにこちらの方が安心できた。
 アパートの近くにはこぢんまりとした家庭菜園の様なものがあった。そこで老夫が作業をしていた。
「すいません」
「ん?」
 老夫はゆっくりと顔を上げた。その顔には無数の深い年輪が刻まれている。――八○歳くらいだろうか。土橋は見当をつけた。
「このアパートの大家さんはどちらにお住まいか、ご存じですか」
「大家は儂だあ」
「そうですか。失礼しました。お聞きしたいことがあるんですが」
「なんだ?」
「一○年前、一○一号室住んでいた母子を覚えていますか?」
「一○年前?ああ、山下さんのことか?」
 確か滝沢夫人の旧姓は山下だった。
「そうです。そうです。どんな方だったか覚えていますか?」
「覚えてるも何も、忘れるわけにゃあて」
「何かあったんですか?」
「夜中に母親が娘に怒鳴っとるんだわ。近所から苦情が凄かったでね」
「怒鳴る?」
「 “いい加減にして!”とか“外出ちゃだめ!”とか。確か娘は小学校高学年くらいだったでね。心配やったんやろけど」
「娘さんは夜に外を出歩くような子だったんですか?」
「いやあ、んなことないよお。放課中も本読んどるような子だったでね」
「ほうか?」
「授業と授業の間の休み時間だがね。知らんの?」
「すいません。他には何かなかったですか?」
「家賃はしょっちゅう滞納しとったね。往生こいたわ。あん時も急にいなくなってまって、三ヶ月分の家賃がワヤになってまったわ」
「お金に困っていた?」
「困っとらんかったら払うだろお」
「それはそうですね」
「そういえば、よからん噂もあった」
「噂?」
「これもんと付き合いがあったらしいわ」
 大家は人差し指で頬に縦線を引いた。ヤクザ者ということだろう。
「ほれ、そこの。大きな屋敷があるだろお」
 大家はアパートの斜向かいを指さした。
「あそこが、なんやあいう組の組長の屋敷らしいわ」
 敷地は高い漆喰の塀に囲まれており、内側には竹が無数に生えている。外からは屋敷がまるで見えない。
「山下さんはなぜ突然消えたんでしょう」
「知らんがね。儂が聞きてゃあわ」
「ありがとうございました」
 土橋は大家が言っていた屋敷の周りをぐるりと回った。敷地はかなり広く、一周回るのに数分かかってしまった。竹に囲まれた敷地はまるで竹林のようだ。しかし、竹が生えているのは塀から精々一mくらいまで。意図的に植えられたものだろう。しかしここまで育つのは長い年月を必要としたに違いない。正門は木で出来た立派な扉だった。そこには表札もかかっていない。いきなり訪ねるのは危険だと判断した土橋は周辺住民に聞いて回ることにした。
 その結果、日中はお手伝いさんしかいないということがわかった。土橋は夜にまた来ることにした。
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