二章 11

文字数 1,798文字

 梨香子は両手を広げて空を見上げた。顔が水滴で濡れていく。梨香子は見上げたまま聞いてきた。
「汚れてみたいと思ったことはない?」
「あるわ。何度もね」
「それもその一つかしら」
 梨香子は奈々の腕の包帯を指さした。奈々は小さい声で「そうね」と答えた。
「あたしはね。二年前、目の前で親友を殺されているの。年下の可愛い子でね。妹みたいに思ってた。でもその子は一瞬で消えてしまった。その日もこんな雨の日だった」
「……」
「その日から酒に溺れるようになった。男、女に関わらず交わり続けるようになった。酒と煙草と男と女だけがあたしの命をつなぎ止めてくれたの。歌謡曲のタイトルみたいでしょ?」
 梨香子は自嘲の笑みを浮かべた。無表情の奈々を気にした様子もなく続けた。
「だからあなたみたいな女性は好きよ。あたしと寝てみない?」
「止めておくわ。傷の舐め合いになりそうだから」
「強いのね」
「強くなんてないわ。強がっているだけよ」
「強がれることが強いのよ」
「そうかしら」
 梨香子は力なく頷いた。そしてまるで倒れ込むように奈々に抱きついた。そして再び唇を重ねる。奈々は抵抗しなかった。酒の臭いと雨の味がした。梨香子は不意にキスを中断し奈々から離れた。
「ごめん。つい……」
 奈々は気にした様子もなく質問をぶつけた。
「あなたは徳田教授の死について何か知っているの?」
「知らない……。でもあいつがベッドで自慢気に語ってきたことがあるの。それは一○年前の愛人の話だった」
「滝沢誠の妻……」
「そう。それに娘ともね。娘とのことは滝沢さんの奥さんには秘密だったらしいわ。そんな関係が続く中、七月二五日、滝沢誠さんは殺された」
「七月二五日?」
「ええ。どうかしたの?」
「いえ……。続けて」
「その日付を聞いた時はただの偶然だと思った。あたしの親友が殺されたのも七月二五日だったから」
「……」奈々の心臓は激しく脈打った。
「なんとなく興味を持って調べてみたの。一○年前の事件はナイフのようなもので刺されていた。そして未だ未解決。親友の事件と同じだった。そこであたしは他にも未解決事件はないか調べてみた。そしたら出てきたわ」
「なに?」
 奈々は思わず大声を上げた。梨香子は「落ち着いて」と言って歩き始めた。歩きながら梨香子は続けた。
「整理して話すわ。まず一○年前、滝沢誠さん刺殺事件。四年前、山口直人さん刺殺事件。三年前、谷口一郎さん宅放火殺人事件。二年前、あたしの親友、佐藤真奈美刺殺事件。去年、真奈美の母親、佐藤良枝さん刺殺事件。そのすべてが七月二五日に起きている」
「そんな……」
「嘘みたいでしょ?」
「同一犯の犯行だと言うの?」
「すべてが同じ日付なんて偶然あるかしら」
「……ないわね」
「そう明らかに不自然よ。だからあたしは探偵を雇った。この事件を調べさせるために」
「探偵……、まさか土橋って人?」
「ええ。何で知っているの?」
「……徳田教授が亡くなる直前まで一緒にいた生徒が、自分の前に土橋という人が教授と会っていたと……」
「そうか、あの時ね。七月一九日。徳田と会った後、土橋さんから電話があったわ」
「あなたはその未解決事件の犯人と徳田教授を殺した犯人は同じだと思う?」
「解らないわ。でも違うと思う。犯人は二五日に異常な執着がある」
「確かにそうかもね……。無関係か」
「でも無関係とは言えないかもよ」
「え?」
「さっき話したように、徳田と一○年前の事件は、愛人という形で繋がっていた。全くの無関係とは言えないんじゃないかしら」
「……そうね。話してくれてありがとう」
 奈々は梨香子に頭を下げた。梨香子に抱いていた不快感が不思議と消えていた。――自分と梨香子は似ている。
「もう行っちゃうの?」梨香子は名残惜しそうに聞いた。
「ええ」
「もう一度聞くけど、あたしと寝る気はない?最高の快感を約束するけど……」
「……止めておくわ。知らなくていいこともあるし」
「そうね」
 
「そうだ」
 奈々が顔を戻して言う。梨香子は続く言葉を待った。
「梨香子さん、気をつけてね。あなたには死の影がちらついている気がする」
 奈々は返事を待たずに、去っていった。
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