三章 7

文字数 2,962文字

「いい度胸だな。兄ちゃん」
 土橋は土屋丈の睨みに気圧されたが、必死に虚勢を張った。二人を囲むように六人の組員が立ち、土橋に鋭い視線を浴びせている。
「いい度胸なのはあなたですよ。土屋さん」
 土橋の心臓は激しく鳴っている。その音が土屋に聞こえてしまうのではないかと思えるほどだった。急に吐き気がつきあげてくる。ごくりと唾液と共にそれを飲み込むと、苦味と共に嫌な臭いが鼻に突き抜けた。
「無理するなよ、兄ちゃん」
「土橋です」
「あ?」
「兄ちゃんではなく土橋です」
 土屋は“ふっ”と鼻で笑って、ソファーにもたれ掛かった。表情もわずかにゆるんだように見える。
「まあ、いいだろう。俺のどこがいい度胸なんだ?ど・ば・し・く・ん」
「人間や戸籍の売買。いつまでも続けられると思ってるんですか?」
「うちは昔ながらの任侠を重んじるヤクザでね。そんなことはしていないよ」
「いいんですか?そんなこと言って」
「……」
 土屋の表情は動かない。いざとなれば土橋を消してしまえばいいと思っているのだろう。殺気が部屋中に充満している。
「山下綾子」
「!」
 初めて土橋の表情に変化があった。左目がピクリと動いた。間違いない。土橋は確信した。
「一○年前、あなたが戸籍を売った女ですよ」
「知らねえな」
 土屋は再び身体を前に乗り出して、土橋を睨んだ。やはり一筋縄ではいきそうにない。
「土屋さん。私はあなたの罪を明らかにしたい訳ではない。山下綾子の行方を知りたいだけです」
「ほう。ちなみにその山下某(なにがし)の行方を知ってどうするんだ?」
「山下綾子は人を殺している可能性があります。先日も一人殺されました。それが山下綾子の犯行かもしれません」
「悪いが知らねえな」
「山下綾子が捕まれば戸籍の売買が明らかになるからですか?」
「……」
「お願いします。奴は七人の命を奪ったかもしれない殺人鬼なんです。被害者をこれ以上増やしたくないんです」
「なぜそこまでそいつにこだわる」
 おもむろに土橋はジャケットを脱いだ。土橋の身体を見て、土屋の表情が明らかな動揺の色を示した。
「これが答えです」
「そうか……」
 土橋はジャケットを羽織り直し、その場に土下座をした。
「お願いします。土屋さん!」
「その女を捕まえたらあんたは満足するのかい?」
「はい……」
 土屋の射るような視線を頭に感じた。
「そうか、解った。顔を上げろ」
 そして組員に命じて土橋をソファーに座らせた。
「俺らが戸籍を売る時にはあるルールがある」
 懐から煙草を取り出して咥えると、すぐに組員が火をつけた。
「客は数百ある戸籍から自由に選ぶことができる。戸籍資料はすべて紙媒体で書かれている。デジタル媒体には一切保存していない。そして選ぶ瞬間を俺らは見ない。つまり俺はそいつが何を選んだかは解らないってことだ。買った奴の資料も入金が確認された瞬間にシュレッターにかける。その方がお互いのためだ」
「そんな……」
「だから俺の記憶でしか語ることはできない。それでもいいか?」
「お願いします」
 証拠が何もない現在の状況では、推測するための情報がわずかでもほしい。
「一○年前、確かに山下綾子は戸籍を二つ買った。名前は誰も見ていないから解らない。購入後、そいつは整形をしている」
「二つ……、恐らく娘のものでしょう。顔も変えているのか」
 土屋は組員に言って、紙とペンを持ってこさせた。そして何かを書いて土橋に渡した。
「これは?」
「山下綾子が整形した病院だ。闇だけどな。土屋の紹介だと言え」
「土屋さん……」
「同情したわけじゃねえぞ。あんたが気に入っただけだ」
「ありがとうございます」
 土橋は再び頭を下げた。
「ところで土橋君」
「はい」
「随分勇気があるな。ここに来たら殺される可能性があることは予想できただろ?」
 土橋は土屋の笑顔を初めて見た。とても人身売買をしている極悪人には見えなかった。
「はい。だから保険をかけてきました」
「保険?」
「ある新聞社に今日午後一六時までに電話することになっているんです。もし電話がなかったら、私は死んでいるはずだから、その事件を記事にしてくれって頼んであるんです」
「殺されそうになったら、そのカードを切るつもりだったのか?」
「はい」
 土屋は急に大声で笑い始めた。そして懐からリボルバー型の拳銃を取り出した。
「え?」
 土橋は一瞬土屋が何をしているのか解らなかった。しかし間違いなく銃口は自分に向けられていた。
「こうなることは予想できなかったのかい。ど・ば・し・く・ん」
「つ、土屋さん?」
「あんたを殺したって証拠はどこにも残さないぜ」
 背筋が寒くなった。それは決して首から垂れた汗のせいではない。恐怖だ。あの時のように死の恐怖が襲ってくる。
「それにあんた、その新聞記者の名刺でも持っているんじゃないか?あるいは携帯に番号を登録していたりしてな。俺があんたに成り代わって電話すればいい」
 終わった。土橋は死を覚悟した。土屋の言うとおり土橋の携帯電話には岡田の携帯番号が保存されている。土屋は土橋の小細工なんてお見通しだった。
 撃鉄が起こされる。土橋の汗が急速に引いていく。
「死ね。土橋」
 土屋は引き金を引いた。
「バン!」
 銃は“カチッ”という音をたてた。
「はっはっはー。冗談だよ、土橋君。ヤクザはリボルバーなんて使わないんだぜ。覚えておきな」
 口の中がカラカラになっている。瞬きすらもを忘れていたのだろうか、目も乾いていた。
「土橋君」
 土屋の顔が真顔に戻った。
「ヤクザと関わろうなんてこれっきりにしておきな。それが身のためだ」
「は、はい」
「驚かせたお詫びに一つ教えてやるよ」
 土屋は銃を懐に仕舞った。
「俺らが人間を商品として扱う場合、その商品になるための条件がある」
「条件?」
「それは自分の責任で作った多額の借金を背負っていること。残される家族がいないこと。それと……」
「……」
「自分が商品になることを望んだ場合だ。その三つが揃わないと商品にはなれない」
 土屋は灰皿に煙草を押しつけた。
「今までそんな奴は一人もいなかったけどな」
 そう言って再び笑顔を見せた。土橋はほっと息を吐いた。
「土屋さん、ありがとうございました」
 土橋は頭を下げて、立ち上がる。組員が見守る中、出口に向かって歩いていった。今はただ外の空気を吸いたかった。
「土橋!」
 呼び止められて恐る恐る振り向いた。再び心臓が高鳴る。
「復讐の先に何があると思う?」
「え?」
「『無』だよ。その先には何もありはしない。よく覚えておくといい。死の恐怖を誰よりもよく知っているあんただ。あんたなら解るはずだ」
「……」
「経験者からのアドバイスだ。ま、やっちまったらその時はここに来な。なんとかしてやる」
 土橋は会釈して部屋を出た。やはり土屋はすべてお見通しだったようだ。
 
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