三章 8

文字数 1,011文字

 土橋は空気を思い切り吸い込んだ。手のひらは汗でぐっしょりになっていた。ヤクザの事務所に乗り込むなんて命知らずなことだ。土橋は溜息を吐いた。土屋が噂通りに人身売買に手を染めているなら勝算はあると思った。しかし、土屋は土橋が考えているよりもはるかに頭が良く、人間的だった。
 土橋が命をかけるのも、ある人物から調査を依頼された――からではない。それは酷く個人的な事情による。しかし、土橋はまだ死ぬわけにはいかない。土屋に空の銃を撃たせた要因があるとするならば、土橋の思いの強さに心を動かされたからだろう。
 時計を見ると時刻は一六時を回っている。慌てて岡田に電話をかけた。
「土橋です」
『あんた生きてたのか!すげーな。どうやったんだよ』
「運が良かっただけです」
『俺もな。思い切って土屋組の記事を書いてやろうと思ってな。見出しはもう決まってるんだ。人身売買!知られざる闇の商売!ってな』
「……岡田さん」
『ん?良いアイディアだろ。俺もジャーナリストの端くれだ。命をかけるぜ!』
 岡田の声は興奮していた。土橋が生きているとは思っていなかったからだろう。
「その記事書くのやめておいた方がいいですよ」
『は?何言ってんだよ』
「土屋さんに会った感想です。筋の通らないことがあったら彼は確実に銃の引き金を引きます。岡田さんは殺されます」
『筋ってなんだよ。あくどい事している奴らの方が筋が通ってないだろう』
「どうしてもと言うなら止めませんけど。記事を書くならきっちりとした裏取りをした後の方がいいですよ」
『まさか……奴ら、やってないのか?』
「はい」
『なんてこった。でも納得できねえな。やっていないって証拠がある訳じゃないだろう?』
「ご存じでしょう。やったことを証明するよりも、やっていないことを証明する事の方がはるかに難しいことを」
『でもよ……』
「岡田さん、命を大切にして下さい。死んだ方がいい人間なんて……、少ししか居ませんから」
『解ったよ。元々あんたが来なければ、考えもしなかったことだ。忘れることにするよ』
「ありがとうございます。そのかわり、今俺が調べていることに確信が持てたら……。岡田さんと山さんにスクープをプレゼントしますよ」
『ははは、期待しないで待ってるぜ』
 土橋は電話を切った後、「俺が生きていれば……、の話ですけどね」と呟いた。
 
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