五章 6

文字数 1,023文字

 土橋は洗面所で顔を洗った。それでようやく気持ちを落ち着けることができた。
 居間に戻ると、大塚は新しいコーヒーを淹れ直してくれていた。細かいところまで気がつく子だ。明は幸せ者だな、土橋はそんなことを思った。
 事件の後、婚約者は土橋の元を離れていった。直接的には言わなかったが、家族が殺されたことと、土橋の身体が以前のものと大きく変わってしまったこと。その二つが原因だろうと土橋は思っている。
 すべてを失った土橋にはもはや犯人しか残っていなかった。必ず見つけてこの手で始末をつける。法の手などに委ねるわけにはいかない。
 大塚は事件のことを話してくれた。辛い過去だ。当時のことを思い出すのは苦痛だったに違いない。しかし、大塚はこう言った。
「忘れてしまう方が辛いから……」
 強い女性だ。まだ若いが、もう立派な大人だった。
「犯人の顔は見ていないんだね?」
「はい。暗かったから……。でも」
「でも?」
「当時は思い出せなかったんだけど、時間が経って思い出したことがあるの」
 土橋は身を乗り出して、大塚の言葉を待った。
「犯人の声」
「声?」
「女の声だった。犯人は父に言ったの」
「……何を?」
「“お前達のせいだ。死んで償え!”と」
「お前達?七月二五日に殺された人達のことか?」
「解らない……。でもそうだと思う」
「被害者には繋がりがあったのか……」
 土橋の調べた限りでは、被害者は働いている会社も違えば、学生時代の同級生でもない。だから接点はないように思われた。犯人がなぜ彼らを標的にしたのかはどうしても解らなかった。だから無差別に選んでいると思っていた。しかし、そうではなかったようだ。――それに。
「まさか女だったとは……」
「どうして?」
「岩槻さんは立派な体格だったと聞いていたから、女には犯行は無理だと思っていたんだ」
「確かにそうね。でも暗かったし、いきなりだったから。父も油断していたんだと思う」
「そうだな。そうとしか考えられない」
――女だとするとやはり怪しいのは、滝沢の妻、綾子か……。
「今、どこで何をしてるんだ……」
 土橋は懐に手を伸ばした。そこにはあの日の業火でも焼失しなかったステンレス製の包丁がある。取っ手の焦げ痕が当時の怒りを思い出させてくれる。
「これで決着をつけてやる」
 土橋の呟きは大塚の耳には届いていないようだった。
  
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