二章 10

文字数 1,827文字

 梨香子は大学には来ていないようだった。明に聞いたら、恐らく駅南のクラブにいるだろうということだった。
 奈々はそこに行ってみることにした。入店料を払って店に入ると、耳をつんざくような大音量の音楽が流れていた。激しく鼓膜を刺激する。下腹に重低音がドンドンと響いた。
 まだ一八時過ぎだというのに大勢の若者がいた。リズムを楽しみ踊る者、音楽などそっちのけでナンパに励む者、ただ酔っぱらっている者。様々な人間模様がある。
 奈々はこうした店が苦手だった。酒は好きだが、静かに呑みたい。騒がしい処で呑んでいると全く酔えなかった。どこかで覚めた自分が見ているような感覚になる。
 奈々を見て何人かが声をかけてきた。そのすべてを無視してお目当ての人物を捜す。奈々は段々不愉快になってきた。会いたくもない人物に会うために、行きたくもない場所に自分はいる。帰ってやろうか。そう思った時に、その人物を見つけた。
 梨香子は店内にあるバーカウンターに座り、頬杖をつきながらウイスキーを呑んでいる。奈々は隣に腰を下ろした。
「スコッチ?」
 梨香子は奈々を見て驚いたようだった。
「バーボンよ」
「じゃあ、あたしもそれを」
 奈々はバーテンダーに注文した。すぐに琥珀色の液体がグラスに注がれ、奈々の前に置かれた。――女子大生が呑む酒じゃないな。
 梨香子は煙草を咥えて、マッチで火をつけた。
「マッチのね、臭いが好きなの」
「そう……」
「こういう雨の夜は一人で居たくないの」
「……」
 梨香子は何か話したいようだ。奈々は黙って聞くことにした。
「こういう日は汗にまみれてみたくなる。快楽に溺れて、先のことなんか考えずに。ただ叫び続ける。あなたそんな経験は?」
「いいえ」
「そう、幸運ね」
「幸運?」
「そうよ。知らなければ欲することはない。一度でも知ってしまったら、身体が求めてくるのよ。麻薬と同じ」
「薬をやっているの?」
「薬はまだよ。薬以上の刺激を受けたことはあるわ。いい刺激ではなかったけれど」
「あたしも知りたくもないことを知ってしまったことがあるわ」
「何を知ってしまったの?」
「人の死の瞬間よ。命が消えていく姿をじっと見ていた」
「……」
「忘れようとしても眼球が覚えているのよ。網膜に刻まれた映像があるの。そんなもの見たくなかったのに。それ以来かしら、見えるのよ」
「見える?」
「その人が現れるの。霊感なんてないはずなのに」
「似てるのね。あたし達。あたしも人の死を見たことがあるわ。飛び散る血、白くなっていく顔、温度を失っていく身体。しとしとと降る雨。そして何も出来ない自分」
 梨香子はバーボンを口に入れた。そして不意に奈々の後頭部を掴んで引き寄せた。冷たい唇が触れてくる。そして生温い液体が舌を伝って入ってくる。奈々の口からわずかにこぼれ、涎のように垂れるバーボンを梨香子は舐めた。
「あなたみたいな人、好きよ」
「あたしは嫌い」
 奈々は梨香子を睨みつけた。それを見て梨香子は嬉しそうに大声で笑った。周りが一斉にこちらを見る。奈々は梨香子がこれ以上酔う前に話を切り出すことにした。
「聞きたいことがあるの」
「なあに?ふふ」
「徳田教授との関係についてよ」
「……それを聞いてどうするの?」
「あなたには関係ないわ」
「そうね。関係ないわ。あたしと徳田は」
「じゃあ、何もなかったってこと」
「ああ、あなたが聞きたいのはそういうこと?」
 梨香子は大袈裟に手を叩いた。
「徳田とは寝たわ。何度もね」
「どうして?」
「どうして?」梨香子は奈々の質問に質問で返した。
「あなたは四年生でもないし、単位が足りていない訳でもない。徳田と寝る理由なんてないでしょ?」
「……暇だったのよ。退屈な毎日に嫌気がさしてきたの。のうのうと日々を生きている自分が嫌になったのよ。だから一番醜い男に抱かれてみたの。理由はそれだけよ」
「自分を惨めにしたかったの?」
「……」
 梨香子は残りのバーボンを一気に呷った。奈々のグラスも奪って一気に飲み干した。
 梨香子はふらつきながら席を立った。時折、ヒールが床に引っかかって足首を捻ってしまう。酔いがかなり回っているようだ。奈々は後ろからついていくことにした。二人はクラブを出て、小雨が降る外を歩いた。
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