三章 10

文字数 1,909文字

 疲れていたのか土橋は一○時過ぎに目を覚ました。ホテルをチェックアウトして、荷物を『名古屋駅』のコインロッカーに預けた。
 半分諦めていたが、昨日から気になっていた四○○円の朝食バイキングの店に行くと、バイキングはまだやっていた。――ほとんど昼食なのにいいのだろうか。
 土橋は申し訳なくなったが、モーニングサービスは一一時までと店が言っているのだからギリギリセーフで良いのだろう。味も美味しく、バリエーションは豊富だった。サラダ、卵焼き、目玉焼き、パン(五種類)、鮭の塩焼き、スパゲティ、ご飯、味噌汁、味付けのり、納豆など。やはり商売がやっていけるのかと心配になったが、土橋は遠慮なく腹一杯食べた。
 その後、昨日のビルに行ってみた。右から二番目の扉をノックしてみるが、やはり誰もいないようだ。
「まいったな」
 土橋は何気なく廊下を歩いた。四階には五つの扉がある。一番左端の扉の前に立つと、土橋は開いた口が塞がらなくなった。その扉にはネームプレートがかけられていて、『右から二番目』と書かれていた。
「何だよ、それ」
 扉をノックすると、「開いてるよ」と奥から声が聞こえてきた。中に入ると、白衣を着たスキンヘッドの爺さんが一人いた。
「あの……、土屋さんの紹介で来ました」
「ああ、坊ちゃんの言っていた土橋ってのはあんたか?」
「はい。連絡があったんですか?」
「あったよ。昨日待ってたのによお。何で来なかったのよ」
「いや……、メモに右から二番目の扉って書いてあったので」
「よく見ろよ。多分そう書いてないぞ」
 土橋はメモを見た。住所が書かれた後に『ぼろぼろのビルの四階、『右から二番目』という扉』と書かれていた。――『右から二番目』という扉?
「という?」
「そう、という。この病院の名前」
「右から二番目がですか?由来は?」
「学生時代のあだ名。解剖実習の時に寝ころんでいた遺体の、右から二番目に俺が似てたんだよ」
「何かイヤなあだ名ですね」
「俺みたいな闇医者にはちょうどいい名前さ。で、何の用?整形したいの?」
「いえ。聞きたいことがありまして。五年前のこと覚えていますか?」
「最近は昨日のことでも怪しいぜ。ボケ始めてるからな」
「母と娘の二人なんですが……」
「坊ちゃんの客か?」
「はい」
「とすれば、思い当たるのは一組しかいねえな。疲れた顔の女と凛々しい顔の娘だ」
「間違いないですか?」
「ああ、坊ちゃんは滅多にここを紹介しねえからな。多分あの母子が気に入ったんだろう」
「名前は何ですか?」
「名前は聞かない。それがルールだ」
「やっぱり、そうですか……。じゃあ、整形後の写真とかは?」
「ない。それがルールだ」
「……まいったな」
「まいられたら、こっちがまいっちまうよ」
「手がかりなしか……」
「ああ、そういえば」
「何ですか!」
「慌てなさんなって。最初、断ったんだよ。綺麗にするのが俺の仕事だ。でも明らかにその母親が望むとおりにやったら不細工になっちまう。そしたら、母親が涙ながらに訴えてきたよ。“あたしは娘を護らないといけないんです。その為なら何でもする”ってな。俺はうるっときちまってな」
「それで手術を?」
「ああ」
「二人とも整形したんですか?」
「いや。母親だけだ。俺もガキにメス入れたくなかったしな」
「娘を護らないと……。娘は誰かに狙われていたのか?」
 土橋は独り言のように呟いた。それに爺さんは「かもな」と答えた。
「娘は明らかに病んでいた」
「病気だったんですか?」
「精神のな。よほどショックなことがあったのか。記憶がかなり混乱していた。名古屋に来る前の記憶がないらしいんだ」
「……」
「俺に話せるのはこれくらいだ。参考になったかい?」
「はい。大変参考になりました。ありがとうございました」
「なあ土橋さんよ」
「はい」
「母親は強いぜ。子供を護るためなら何だってするさ。倫理なんてクソ食らえだ」
「なるほど。羨ましいですね」
「あん?」
「私にはそんな母親はいませんでした。金と欲にまみれていましたから」
「それでか……」
 爺さんは近寄ってきて土橋の顔をじっと見た。
「あんたの目は濁っちまってる。希望を捨てた目だ。その先にあるのは『死』だけだ」
「土屋さんにも似たようなことを言われました」
「だろうな。坊ちゃんが気に入るのはいつもそんな奴らだ」
 爺さんはそう言って口を大きく開いて“にかっ”と笑った。前歯はなかった。
 
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