文字数 1,368文字

 一人になった池上は、消費者団の思想は間違いだったのでは?と考えた。「生産過剰が、供給過多が、作り過ぎたものの価値を下げる。で、今は生産が消費を軽く追い抜いている。なのに、生産を止めることなく、よりよく作れば消費されると限界で回っている。だから、消費のみの役割というのは必要ではないか?」それが消費者団の思想だが、世間からすれば消費者団の評価は、ただ働いてない人、ニート、無駄飯食らいとなってしまった。そんな世間の低い評価だから、いなくなった仲間も、いなくなったからって、誰も悲しまなかった。ただ、都合の悪い隠し事が、溶けた氷のように綺麗になくなったことに対して、その家族たちは安堵したようにも見えた。だからなのか、彼らの家族は失った悲しみより、消えた安心の方が大きいように見えた。これまで、あんな寂しい葬式に出たことがなかったし、自分がもし、あの時死んでいたら、あんな、家族だけの、しみったれた形式のみの、まるで密かな厄介ごとの処理のような葬式になっているに違いない。池上は、ある時は、団員の葬儀の参列を希望したが、遺族たちは、どちらかというと同じ被害者の立場にある池上に感情が凍ったような視線を送った。そうやって市民斎場で追い返される喪服姿の池上は見ていた。太陽の白い光が強く窓から照らし、死んだ人間は真っ白なお棺の中にとじ込まれれて、最後の静かな空気すら触れさせてはもらってなかった。
 あの世間から溢れた人に対する遮断はなんだったのだろう?今の世は、生産装置が極限まで進化して、簡単に大量のものができる。なので、働いて幸せになるものではないが、働くこと、何かを作ることが、生活、いや、精神まで食い込んでいて、習慣化されており、そこから外れることを良しとしない風潮が出来上がっているのだろうか?
 池上は、仲間たちの死を見て、これまで学んだ経済学に対して疑念を強く持つようになっていた。生産ではなく、消費に重点を置いた活動が、社会をまわすのに役に立つという思いがあったが、このような、不必要と評価された人間に冷たい社会に、寄与する必要があるのだろうか?だからといって、池上は「じゃあ、生産を習慣とした社会はどうなっているのか?」という疑念は晴らすために、社会に出て働いてみるということはしなかった。
 こうなったら無駄に時間を過ごしてみよう。これまでの社会の設定ありきの、経済の考察をやめて、まず、経済とは何かから、調べてみよう。根元を辿れば、道が開けるだろうという思いだった。
 池上は、まず、経済という言葉の意味から入る。経済は「経世済民」の略語である。意味は「国を治め、民を救済する。」ということらしい。生産だの消費だのはまったくなく、どちらかというと政治家の志のような言葉だった。政治家といえば、ただ、名前を連呼して、もしくは親の後を継ぎ、その地位、権力を奪い取り、大した知識もないのに、踏ん反り返って、国家の頭脳である官僚を思うように操れる悪党である。悪党の戯言が経済の真髄。景気が悪いと政治が悪いというおかしなロジックは、経済の言葉の成り立ちからすれば、意味が通るが、政治家が悪いのと、景気が悪いのは、基本的に関係ない。もし、政治で消費活動が旺盛になるのなら、民衆は底抜けのバカであるということになる。そんなことはないはずだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み